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“匕首をくわえたザンバラ髪の女”の刺青から血が吹き出して… 戦後の新橋を我が物にしたヤクザの哀しき最期

『伝説のヤクザ18人』より #2

2021/03/10

 現代のヤクザ社会では、一人ひとりのヤクザが単独で行動をすることは許されず、徹底的な“組織”での行動が求められるようになっているという。すなわち一人のヤクザが伝説にはなりえぬ時代といえるだろう。しかし、かつては際立った個性を持ち、各地で伝説と呼ばれるヤクザたちがいた。

 そのような“伝説のヤクザ”の生涯を詳らかにした書籍が、フリーライターの山平重樹氏による『伝説のヤクザ18人』(イースト・プレス)だ。ここでは同書を引用し、頭脳と腕力で戦後の新橋を牛耳り、巨大な駅前開発を計画していた男の生き様を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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水泳教師の過去からきた異名

 “カッパの松”こと関東松田組初代組長の松田義一は、戦後、東京・新橋駅前に広がった膨大な闇市の利権を一代で掴みとった風雲児であった。

 松田は富山県氷見(ひみ)の出身だが、もともとが愚連隊だった。旧制の神田・錦城中学(現・錦城学園高校)時代には愛宕、三田、芝神明、新橋駅周辺を根城とする学生愚連隊のリーダーにのしあがっていた。

 中学を卒業後、しばらくは“兄ィ”として新橋のサロン「春」の用心棒をしながら、銀座界隈で名を売った。水泳が巧みで、昼間は芝プールの水泳教師を兼ねていたことから、“カッパの松”の異名で呼ばれるようになったという。

 日中戦争が勃発すると、大陸ブームに刺激されて上海に渡った。そのころ、銀座に事務所を構えていた大和新風大化会(のちに大化会)の岩田富美夫の影響を受け、彼に付いての上海行きであった。

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 大陸での消息は明らかではないが、上海にしばらく滞在したあとに北満(ほくまん)を流れ歩いて大連(だいれん)へと至り、大陸ゴロのボスに納まって関東軍に協力していたようだ──との話も伝わっている。

服役中に妻が亡くなる

 大陸には2年ほどいて帰国後の昭和16年10月、ちょっとした間違いから上野の日東拳闘クラブ会長の伊藤祐天を斬るという傷害事件を引き起こした。間もなく手打ちとなったが、松田はこの一件で実刑を打たれ、千葉刑務所に10カ月服役するハメになる。

 千葉刑務所では、破笠一家入村貞治の若衆で“佐竹の坊ちゃん”こと飯村操とともに、500人からの受刑者の上に君臨し、よく統率し、刑務官からも服役者からも一目置かれていたという。

 松田は昭和17年暮れに出所したが、服役中に最初の妻ルミを肺結核で亡くしている。喪が明けたあとで妻に迎えたのが、ルミの姉の芳子であった。

 松田義一亡きあと、その跡目をとり、戦後初の女組長として名を馳せた関東松田組二代目の松田芳子である。

 芳子はもともと横浜・山元町(やまもとちょう)の出身で、旧姓を松永といった。芳子は美人として知られるが、妹のルミは芳子にもまして目の覚めるような美女であったという。不良っ気もたっぷりで、腕に“流れ星”の文字の刺青を彫り、“流れ星のルミ”という異名もあった。

 本牧(ほんもく)のチャブ屋(外国船員相手の高級遊郭)「東亜」に勤め、つねにナンバーワンの座を保っていたが、プライドも高く、気にいらない客は絶対にとらなかった。