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配下総勢2000人を統率

 かくて新橋駅前の広大な露店市場(約1300店)は、ほぼ関東松田組の軍門にくだった。つまり、駅前の闇市は関東松田組の庭場となり、露店からのカスリやショバ代を集める支配権を獲得するに至ったのである。

 そうした庭場からのアガリ(直系露店のアガリも含む)は、1日一升枡100杯に達し、組の金庫は札束で唸ったという。

 同時に組織もふくれにふくれあがった。関東松田組は直系組員だけで100人、総勢2000人ともいわれる勢力になったのである。

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 そうした力を背景に、松田義一は昭和20年の暮れ、名門テキヤ・松坂屋五五代目を継承、一介の愚連隊からテキヤ社会の公認の存在となった。松田の愚連隊流のはねっ返りを封じたいとする親分衆と、親分衆に公認されたいという松田との双方の思惑が一致した結果の所産であった。

 だが、松田はテキヤの旧態依然とした露店というスタイルに、それほど希望を持ってはいなかった。かねがね、

「露店の繁栄は、商店街やデパートが息を吹き返すまでの2、3年だ」

 と考えていたのである。

1000万円を投じた事業計画

 そこで独自の計画を練っていた。合資新生社の渡辺敬吉社長と組んで、新橋駅西口の強制疎開地域広場(2800坪)に新生マーケットを建設しようというものだった。

 そこへ露天商を収容し、ゆくゆくはデパート化して、そこを拠点に商事会社を興し、興行、土建、その他の事業にも手を伸ばそうという壮大な計画であった。

 松田に、こうした“近代化”という考えかたを示唆したのは、ニューヨーク・ポスト東京派遣員のダレル・ベリガンであったといわれる。

 日本の民主化を妨げている最たるものは封建的家族制度、つまり“親子関係”という基本認識を持っていたベリガンは、ヤクザ社会の支配関係も、この家父長制度の病理的移殖と見たのである。

 ベリガンが書いた『やくざの世界──日本社会の内幕』(昭和23年8月刊行「近代思想社」)も、一貫してそういう観点からのものだった。

 ベリガンは取材で知りあい、親しくなった松田に、関東松田組を商事会社に改変して近代化を目指すべきだ──と説いたといわれる。

 このベリガンからどれだけ影響を受けたかは別として、松田が本気で近代化に取りくんだのは確かなことだった。計画通り、総工費1000万円を投じてマーケットの建設に着手したのは、昭和21年3月であった。

 工事は予想以上に順調に進み、3カ月後には完成目前というところまできていた。