1ページ目から読む
2/5ページ目

横浜の伝説的な愚連隊とのつながり

 この「東亜」の用心棒をつとめていたのが、横浜の伝説的な愚連隊、“メリケン武”こと松永武だった。

 メリケン武はスラリとした長身に三つぞろいのスーツを着こなし、ボルサリーノをかぶり、赤茶色に染めたコールマン髭を立て、つねに仕込み杖のステッキを持ち、運転手つきの黒のフォード・セダンを乗りまわす──という不良少年たちをシビれさせるスタイルで、まさに時代の先端を行った。本牧を根城に、ダンスホールやチャブ屋のあらかたの面倒もみていた。

©iStock.com

 “カッパの松”こと松田義一は、このメリケン武とは古くからの兄弟分であった。

ADVERTISEMENT

現役の毎日新聞記者が相談役

 ともあれ、松田は昭和17年暮れに出所すると、妻の芳子に芝浦で小料理屋を開かせた。が、空襲が激しくなり、彼女を富山・氷見に疎開させている。

 自身はしばらく東京に残り、飯村操の世話で浅草三筋町の龍風荘アパートを仮の住まいとしていたが、間もなくして芳子のもとへ引っ込んだ。

 やがて日本の敗戦となり、松田が本格的に売りだす季節の到来となった。

 戦後すぐに古巣の東京・新橋に舞い戻った松田は、芝西久保桜川町に自宅兼事務所を置き、「関東松田組」を旗揚げする。

 松田組のブレーンとなる塙長一郎と約20年ぶりに再会するのも、それから間もなくのことだった。

 塙長一郎は毎日新聞の記者で、のちにNHKの人気番組『二十の扉』のレギュラーにまでなり、最後は毎日新聞紙面委員をつとめた人物である。

 塙は新聞記者ながら、関東松田組の参謀格として松田義一、芳子の二代にわたって相談役的な役割を担った。いまでは考えられないような話だが、終戦直後という“乱世”ならではのことである。

 カッパの松と塙の出会いにも、面白いいきさつがあった。松田が錦城中学時代、学生愚連隊のリーダーとして芝区内で暴れまわっていた時分、塙は毎日新聞社会部記者として警察まわりを担当、愛宕署を守備範囲に持っていた。