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「食っていくのが大変やから、働きに来とったんよ」

 東北と聞き、私は驚いた。東京の色街なら東北の女性が多かったことは知っていたが、ここ和歌山にもいたということに。

「だいたい14、5から来てたで。寒い国やから仕事ないやん。ほいでみんな来たんや。こっちが金はろうて来てもらってたんや」

「今、お父さんはおいくつですか?」

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「70や。わいが物心ついたころやから戦争が終わって10年ぐらい過ぎた頃は、うちの親戚が女の子置いて、店をやっていたんよ。天王に遊びに来たお客さんと遊ばせたんよ」

「どこで遊ばせたんですか?」

「それは旅館があったって言ったやろ、そこで遊ばせたんよ。昔はそういう決まりやった。店では絶対遊ばせんかったよ。あと女の人も清潔にせないかんから風呂屋があったんよ」

「その店で働いていたのが東北の人だったんですね?」

「そうや。みんな前借金背負ってな」

「その金額っていくらぐらいですか?」

©八木澤高明

「わいは詳しくはわからんけど、当時の金で50万から100万円ぐらいちゃうか。昔はどこも兄弟が多かったから、食っていくのが大変やから、働きに来とったんよ。わいが知ってる姉やんで、仕事辞めてから50年ぐらいこっちに住んでた人がおったよ。今はどこにおるかわからんけどな」

「親戚のお店はどこにあったんですか?」

「もう建物は残ってないよ。あの更地のところや」

 更地はフェンスに囲まれているのだが、そこに女性を置いた店があったというのだ。

「一番賑やかだったのは、わいが中学ぐらいまで」

「お店はもうかったんじゃないですか?」

「そうやろな。一番賑やかやったんちゃうか。わいが中学ぐらいまで、みんな商売やっとったけど、法律で禁止されてなくなったんや」

 男性はここまで話すと、「悪いな、仕事行かないけんねん」と言って、去って行った。

 明治時代に産声をあげ、男性が見たのは戦後の天王新地の姿だったわけだが、東北の女性も働いていたという。改めて、天王新地が辿ってきた歴史の深さに感慨を抱かずにはいられなかった。そして、平成から令和に入り、このコロナ禍の1年。街はどうなっているのだろうか。#2に続く〉

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