明治時代から営業が始まった天王新地
翌日、再び天王新地のまわりを歩いた。近隣の住民に話を聞いてみたいと思ったのだ。天王新地では3軒の店が営業しているだけで、そのまわりは住宅と野球でもできそうな空き地となっている。
少しばかり、歴史を紐解いてみると、天王新地が営業をはじめたのは明治時代のことだった。和歌山県はその当時、群馬県と同じく廃娼県として知られていた。のちに遊廓は認められるが、和歌山市内では許可がおりず、遊廓があったのは現在の新宮市、串本町、由良町の3ヶ所のみだった。明治時代の日本には、政府が許可した場所で、売春を公認する公娼制度を施行していたが、法的に認められた遊廓ばかりでなく、政府が黙認するかたちで営業していた私娼窟が存在した。
昭和13年に現在の厚生労働省にあたる厚生省が全国の私娼窟を調査したものを『業態者集団地域ニ関スル調』という冊子にまとめている。東京吉原にあるカストリ出版が復刻したものが、私の手元にある。それによると、和歌山県和歌山市には、天王新地と阪和新地という2つの私娼窟が記されていた。
戦前、連隊のあるところに色街があった
ちなみに阪和新地も歩いているが、その場所は和歌山駅から歩いて10分ほどの場所だ。今ではマンションなどになっていて、何の痕跡もない。強いていえば、ラブホテルと銭湯だった建物が色街だったことの名残である。私娼窟や遊廓の娼婦たちにとって、銭湯は仕事前に体を洗う場所であり、戦前に端を発する色街には銭湯がある。
昭和13年の天王新地には、40軒の店があり、110人の娼婦がいたと冊子には書かれている。和歌山県内の私娼窟では最大の規模を誇っていた。それほどまでの色街が黙認されていたのは、市内に旧日本軍の連隊が駐屯していたこともその理由のひとつだろう。
戦前の日本には連隊のあるところに色街があり、いくつか例をあげれば旭川の中島遊廓、海軍のいた横須賀の安浦、さらには、不倫関係にあった男性の性器を切ったことで知られる阿部定が一時期働いていた、丹波篠山遊廓も連隊が設置されたことで作られたのだった。
女性たちの出身地は「ほとんどが東北」だった
細い路地を歩いていると、初老の男性の姿があった。おそらく何かしら天王新地の過去について知っていると思い声を掛けてみた。
「天王新地のことを調べている者なんですが、店も多かったみたいですね」
男性は、私の方をじろりと見てから、ためらうことなく話してくれた。
「昔はね。旅館が2軒あって、風呂屋も遊廓にはつきものだったから1軒あった。遊べる店もあったけど、今じゃ1軒か、2軒ぐらいか」
「昔はどんな雰囲気でしたか?」
「わいらが小さい時分やで、賑やかだったのはな」
「遊んだりしたことはなかったですか?」
「そりゃ、近所やし、遊んだことはないよ。いくらなんでもな。働いていたお姉ちゃんは全部知ってるで」
「お姉さんはどこから働きに来ていたんですか? 和歌山の方ですか?」
「いや、ほとんどが東北だよ」