センターの瓦礫を利用した「祈りのパーク」
その「防災センター跡地」であることを示す碑はあるものの、具体的に、どこに建てられていたのかはわからなくなっている。「幼稚園」の痕跡もない。防災センターは解体されたが、命日に花や缶コーヒーを置いていた場所もわからなくなっている。ただ、「祈りのパーク」には、解体したセンターの壁の瓦礫が利用されている。
「祈りのパーク」に隣接して、震災伝承と防災教育のための施設「いのちをつなぐ未来館」がある。その中には、「防災センター」に関連する展示もある。津波到達地点を示す2階の壁の一部を見ながら、片桐さんは「屋上に上がれていればよかったんだろうけど」とつぶやいた。津波は、センターの2階の天井付近まで達した。誰もが屋上に上がれる設計ではないが、そうした設計だったら、死亡者は少なかったのではないかという思いがあるのだろう。
「でも(地震発生時に)園にいた子どもたちは助かったからね。そこが一番なんだろうけど。ただ、(鵜住居幼稚園の記載部分に)3名死亡と書いてあるが、あまり見たくないですね。しょうがないけど」
“10年の節目”というけれど「どこで節目をつければいいのか」
発災から10年が経つ。どう感じているのだろうか。
「10年経っても変わらないね、正直。マスコミは“10年の節目”という言葉を使うけれど、どこで節目をつければいいのだろう。その言葉自体がわからない。何も、(当時と)かわらない。そこにある、嫁の存在も変わらない」
筆者はこれまで片桐さんと取材を通じて話をしてきた。理香子さんがそばにいる感じがするという話をしていたが、10年経っても同じなのだろうか。
「正直に言えば、自分自身の仕事であったり、新型コロナの状況もあったりで、忙しさのなかで感じないこともあるし、逆に、頼ることもある。『いま、こうなんだよ。助けてくれないか』って。神頼みではないけれど、そう思うことがある。実際、(美容室の)経営は厳しい。疲れたときとかに頼ります」
震災10年は、昨年同様に、コロナ禍の中で迎える。美容室という客商売は、新型コロナとは相性がよくない。
「コロナで苦しくなることは正直あった。美容室は、人との交流があって、新型コロナに感染しやすいと言われましたから。だから、お客さんは美容室の利用を控えました。いつ来店するのか、読めなくなったんです。女性も来店を控えますし、男性も家族に言われて来なくなりました。髪を染めるのは自分で。髪を切るのは我慢する、という感じです。市販のヘアカラーが売れているというのはそういうことでしょう。だから、業界的には付加価値をつけないといけないですね」