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釜石市防災センターで犠牲になった妻「あの日、『休んで』と言っていれば…」

10年経っても消えない「たられば」。片桐浩一さんが語る

2021/03/10

「もうすぐ10年になるんだね」

 岩手県釜石市鵜住居にある「釜石祈りのパーク」。東日本大震災で津波にのまれるなどして亡くなった人たちの名前が刻まれた「芳名板」がある。市内に住む、美容師、片桐浩一さん(51)が訪れた。妻で、当時、鵜住居幼稚園の臨時職員だった理香子さん(当時31)の名前もあり、訪れるたびに「芳名板」を撫でている。そのため、色が若干、変わっている。

芳名板を撫でる片桐さん

「釜石祈りのパーク」は、「鵜住居地区防災センター」があった場所付近にある。理香子さんは、もうすぐ生まれるはずだった陽彩芽(ひいめ)ちゃんを身籠もっていた。妊娠9ヶ月だった。3月14日から産休の予定だった。

安全性を誤認されていた「仮の避難場所」

 理香子さんが勤務していた鵜住居幼稚園は、防災センターに隣接していた。津波警報が鳴り響く中で避難をした。そして「防災センター」の2階にある「第一研修室」に避難していたと思われている。防災センターには200人以上が避難し、162人(市推計)が亡くなっている。本来ではあれば、「防災センター」は、津波が発生した場合の避難施設ではない。あくまでも、「避難訓練のための仮の避難場所」だった。しかし、地域住民の避難訓練でセンターが使用されていたために、「センター=避難所」と意識され、2010年のチリ津波でも、多くの住民が避難していた。

 市の検証委員会によると、防災センターは、過去の津波の浸水域にあった。しかし、2007年7月の住民懇談会で、市側は「標高は高くないし危険なところという議論はあったが、浸水の可能性はあっても2階までは来ないだろう」という認識を示した。ただ、検証委の調査対象は地域住民の避難だけ。市の職員の避難行動は対象外だ。

理香子さんが避難したとされる2階の「第一研修室」の天井を見上げる(2013年9月撮影)

 鵜住居幼稚園には、当日は約60人の園児が通っていた。しかし、地震があったときには大半の園児は帰宅していた。園舎には園長や教諭の5人と、園児4人がいた。このうち園児2人は保護者が迎えに来た。教諭4人は園児2人と近くの防災センターに向かっていた。園長は市教委と連絡を取るために園舎に戻った。結果、園児2人は助かったが、園長と教諭3人が犠牲となった。園長は園舎の中で亡くなった。理香子さんを含む教諭は「防災センター」で亡くなったと思われる。