10年経っても「たられば」を思っている
「震災の日、『頭が痛いから休んで』と言っていればよかった。『具合が悪いから面倒みてくれ』と言えばよかった。もちろん、頭が痛いわけではないし、(理香子さんは)仕事を休んだことがないので、仕事へ行きました。でも、“そこにいる”理由があればよかったです。もちろん、何か言っていたとしても、『がんばれ』と言ったかもしれない。でも、なんか責任を感じるのが年々増えてきているんですよね。なにかしら、守れる、守ることができたのでは?と思ってしまう。でも、守れる手段はなくて。それに、自分と一緒の生活を、自分に会わなければよかったのではないかと考えるが、会わなくても、(被災した)同じ職場にいたかもしれないけれど」
10年経っても、「たられば」を思っている。それほど、理香子さんと、お腹にいた陽彩芽ちゃんを失った気持ちを引きずっているのだろう。
「子どもがほしいとなったときに、(理香子さんは)自分の仕事よりも、自分の生活を考える人だった。だから、仕事を保育園から幼稚園に変えたんです。保育園は、幼稚園よりも仕事の時間が長い。3歳児未満の子どもが多いので、体力的にも負担はかかっていた。でも、幼稚園は3歳児以上が多く、時間も早く帰れる。以前は、釜石保育園に勤めていたんです。地震があったときに(釜石保育園の園児たちが)高台へ逃げたと知ったときには、助かってよかったと思った。嫁が見ていた子どももいたしね。
地震の直後に、鵜住居に走っていればよかった。自分の商売があったので、店に残ってしまった。地震直後に行けば、津波がくる前に現場にはついたはず。渋滞は、こっちから行くには発生していなかったし」
実家に戻るために部屋を整理して……
後悔の念は消えるものではないのだろう。ただ、自身の生活にも変化がある。
「この前、部屋を整理してて、(理香子さんの)下着を捨てたんです。というのも、親も高齢なので、実家に戻らないといけないと思って。そのため、今のアパートの荷物を片付けないといけないと思ったんです。それで、下着を袋につめたんですが、2ヶ月放置した。なかなか捨てることができなかった。でも、捨てなきゃいけない。だって、生きている人、親を守らないといけないから。捨てるのは断腸の思いだった。捨てられないのは、寂しさというよりも、(理香子さんがいた)形がなくなっていくと思ったから」
震災10年は、ほぼ片桐さんの40代の人生とも重なる。どんな40代だったのか。
「結婚したのも、震災があったのも、人生の一番の悲しみも、悔しさも、苦しかったのも40代に人生のすべてが積み込まれている。震災があったからこそ出会った人もいる。一人という時間を長く過ごしたのも40代。人生のすべてを経験したかもしれない。今後は何も考えてない。なるようにしかならない。仕事を一生懸命するしかないですね」
そう話した片桐さんは、今年の3月11日も地震発生の時間と津波襲来の時間には、鵜住居地区を訪れる予定だ。
写真=渋井哲也