「一昨年の大晦日に体調を崩し、去年の4月まで入院していました。左半身が麻痺し、今も後遺症があります。一時期、しゃべっている内容がわからない状態でしたが、話せるようになりました。運転も難しくなりましたが、リハビリを経て8月ごろには運転ができるようになりました」
岩手県陸前高田市の広田半島に住む、佐々木善仁さん(70)。津波によって、ひきこもりだった次男(享年28)と部屋に閉じこもっていた次男を助けようとした妻・みき子さん(享年57)を亡くした。震災前は、中心市街地の高田小学校の近くに住まいがあった。しかし、住宅は津波にのまれた。勤務していた広田小学校から徒歩10分ほどの借家に住んでいる。
佐々木さんは当時、広田小学校の校長だった。ちょうど3月末で定年を迎えようとしていた。地震が起きたのは、そんなタイミングだった。小学校の児童が下校をするところだった。体感としては15分ほど揺れていたという。当時は1年生の担任、副校長、事務長が休みを取っていた。そのため、「学校が避難所になる」と思った佐々木さんは、体育館で準備をすることになった。ただ、すぐに停電になったので、校内放送ができず、口頭で各教室に指示した。
校庭の近くの海側まで達した津波
中学校の先生や消防団たちが「津波がくるぞ」と言っていた。津波は校庭の近くの海側まで達した。学校の避難マニュアルでは、津波発生時には、高台に逃げることになっていた。具体的な場所の記述はないが、津波想定の避難訓練をしていたために、校庭よりも高い校門の外まで逃げた。幸いにも子どもたちは無事だった。
一方、佐々木さんは家族のことが心配だった。しかし、みき子さんからは「学校のことをきちんとやりなさい」と普段から言われていた。そのため、学校の避難所運営を優先した。広田半島は孤立していた。そのため、自衛隊がくるまで、自分たちでできることをした。
「震災から3日経ったとき、市立米崎小学校の非常勤講師をしていた長男の陽一が学校へやって来ました。そのとき、『俺は、大丈夫だから。あとは校長としての仕事をちゃんとやれ』と言って、帰って行ったんです。米崎小から帰宅するときに、広田小に立ち寄ったのではないかと思っていたんですが、『俺は~』の意味を少しだけ考えたんです。『他の家族は?』と。妻が『学校のことをきちんとやりなさい』と言っていたことも頭を離れませんでした」