一般には知られていない中堅ゼネコンの社長にもかかわらず、永田町では知らぬ者のいない有名人だった男が、2020年12月17日に帰らぬ人となった。その男の名前は水谷功。小沢一郎事務所の腹心に次々と有罪判決が下された「陸山会事件」をはじめ、数々の“政治とカネ”問題の中心にいた平成の政商だ。
彼はいったいどのようにして、それほどまでの地位を築き上げたのか。ノンフィクション作家、森功氏の著書『泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴』より、芸能界でも幅を利かせていた男の知られざる正体に迫る。(全2回の1回目/後編を読む)
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闇からの使者
バブル経済の崩壊した90年代に入り、東京地検特捜部は建設業界における政官業の癒着構造の解消に乗り出す。折しも金丸信失脚後の90年代前半の出来事だ。わけても93年から94年にかけ、宮城、茨城、新潟各県の自治体トップを立て続けに検挙し、建設大臣だった自民党の中村喜四郎を縄にかけた。それはまさしく国策としての捜査だった。
東京地検を先頭に捜査当局が摘発に乗り出し、ゼネコン汚職事件日本全国に吹き荒れた。大手ゼネコンはどこも「もはや談合はしない」と宣言する以外になかった。平島(編集部注:大林組の常務で業界に君臨してきた談合の総元締めとして知られる)のいる大林組でも、談合自粛ムードが強まっていく。そうなると都合のいいもので、会社にとって談合担当者は邪魔な存在になる。
「とりわけ平島さんは、業界で目立ち過ぎていました。関西の建設業界のなかで、衆院選に立候補しようとした息子の選挙に貢献した業者を贔屓しすぎているのではないか、と悪評が立ったものです。さしもの平島さんも、その空気を感じ取ったのかもしれません。長男に衆院選出馬を辞退させた。そういう雰囲気でしたから、平島さんが大林組を辞めると言い出しても、社内に異論はなかった。むしろ追いだしたような格好でしたね」
混乱に乗じた西松建設
大林組の元重役はそう告白する。一方、この混乱はむしろ西松建設にとってもっけの幸いだったといえる。失脚したとはいえ、長いあいだ業界に睨みを利かせてきた竹下派の金丸をはじめ、平島には安倍派の清和会なども政界の知己が多い。準大手の西松建設にとって業界の混乱は、新たな中央政界のパイプづくりに絶好の機会ととらえた。
西松建設は三顧の礼をもって平島を迎えた。そして狙いどおり、飛躍的に業績を伸ばした。西松建設へ移籍するにあたり、平島はみずから築いてきた「栄会」から離れた。代わって、新たに談合組織を組織する。
談合組織の再編にあたり、平島はまず、情報提供会社「エム・アイ・エス近畿」という会社をおこした。公共工事の談合情報を提供する会社だ。みずからは表に立たず、会社の代表には旧知だった清水建設の談合担当者を据えた。そして、エム・アイ・エス近畿へ100社余りの建設業者の会員を募ったのである。
平島にとって、談合組織の再編は絶妙なタイミングだった。1兆円プロジェクトの関空二期工事を控えていた時期だ。だが、そうなると、古巣の大林組をはじめ他のゼネコン各社はおもしろくない。大手の大林組をはじめ、業界全体が平島の動きに神経をとがらせた。むろん黙って指をくわえているわけがない。大林組の元重役が回想する。