平島長男の証言
「いきなり拉致され、ある北陸の街へ連れて行かれたそうです。家族も2週間ぐらい連絡が取れなかったと心配していました。その間、『平島さんは真綿に包んで大切に預かっているから心配しないでください』との連絡が、彼の知人のところへ届いたといいます。関係者のあいだでは、警察に通報するのは得策ではないとして、騒ぎたてなかったと聞いています」
拉致そのものは事実のようだ。つまるところ、談合の告発に対し、裏社会から何らかの圧力がかかったということだろうか。
平島自身は04年3月に鬼籍に入っている。代わって、ひところ安倍事務所で政界入りを目指したという長男が、神戸の自宅で言葉少なくこう話した。
「私が(選挙のための)政治活動をしていたのは事実です。政界へのパイプがあったから、父に協力を求めた。それは、むしろ私のほうからです。父は、家のなかに仕事を持ち込まない主義でした。業界の人が家にやって来ることはありましたが、『用件は会社で聞く』と、みな追い返していました。だから家族は仕事のことを知りません。ただ一度だけ、阪神淡路大地震があった直後、宮本組も含めて何社かから、水やガスコンロのボンベをいただいた。それ以外の付き合いはわかりません」
談合の告発を取り下げた理由に心当たりはないか、そう尋ねてみた。
「それは家族の者にわからない状態でやっていたようでしたから、詳しくは知りません。そういうことも含めて、父は家に仕事を持ち込まなかったから、(拉致されたかどうかも)わかりません」
業界の天皇とあがめられた平島栄は、談合告発の取り下げの後、業界における地位を急速に失っていく。
事件後の失脚
「引退してからの父の余生は、庭いじりと孫の遊び相手くらいでした」
長男はそう振り返る。その西松建設の平島に代わり、土木工事における天皇の椅子に座ったのが、大林組顧問の日沖九功である。土木と建築では、談合のトップが異なるため、建築分野では変わらず竹中工務店元参与の松永英夫が君臨し、大林組常務の山本正明とで権勢を争うようになる。そうした談合の世界の権力構造が変化するなか、関西の土木工事で水谷建設が業績を伸ばしていった。それは平島事件と無縁ではない。水谷建設の元役員が語る。
「水谷建設と宮本組は、同じサブコン業者であり、ライバルでした。関西では、平島さんが宮本を可愛がるあまり、水谷に仕事が入ってこなかったが、とくに欲しかったのは関空の二期工事です。そうして平島失脚後、状況ががらりと変わりました。水建が関空二期工事に参加できるようになったのです。それで、『あの拉致事件は、水谷功さんが関係しているのではないか』とまで言われるようになりました。実際、功さんは平島さんを拉致したといわれる北陸の組の組長とは、古くからの知り合いでもありますから」