3月25日、東京オリンピックの聖火リレーが始まりました。その模様は連日、ニュースなどで報じられてはいます。が、いつもならば過剰に煽ってくるはずの地上波メディアの熱は感じられず、徐々に醸成されていくはずの国民的な盛り上がりは、残念ながらまったく見えてきません。

 メディアの熱のこもった情報量が増えてこないのも、目下の新型コロナウイルス感染の状況はもちろんのこと、「なんのためにこのオリンピックをやるのか」についての明確な答え、今まさに更新されるべき位置づけが置き去りにされているからでしょう。オリンピック開催への歩みが「民意を無視しつづけている」ことを、国民が日々実感していることがこの問題の根幹にある、と私は思います。

聖火リレーの様子 ©時事通信社

あえてひっそりと事を進めているかのような印象

 招致時に掲げられた「復興五輪」というフレーズも、今ではほとんど聞かれなくなりました。福島・Jヴィレッジからの聖火リレーのスタートも、形だけのように見えてしまった。被災地と縁のあるランナー、それぞれの物語にふれる報道もありますし、リレーに関わっている方々それぞれの思いはもちろん尊いものですが、やはり招致決定当初とは状況も様変わりした今、目的と正義の輪郭があまりにも曖昧となってしまっています。

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 このリレーが、国民の心の過半の賛同を得ることは難しいでしょう。

 そして主催者側の姿勢としても、国民の共感を是が非でもつくるんだ、という「攻め」のための正義の変更や正義の更新とそれら「あらたな正義」の「発信」が見えません。あえてひっそりと事を進めているかのような印象さえ受けます。本番に向けて全力で機運を高めていこう、というより、とにかく開催にこぎつけること自体がゴールとさえ感じるような姿勢。オリンピックの意義・目的や、外国人客の受け入れ見送りに伴うコスト負担の問題などが世間の耳目を集めないよう、とにかく今は声をひそめている。

 直前になって、あるいは開会後日本人のメダリストが誕生すればいつものようにブーム的に盛り上がる日本人の特質。それを頼りにして、直前まではとにかく目立たせないことによって、さまざまな批判をうまく受け流しながら進めていこう、そんなふうにも見えてしまいます。