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「テレビ芸」の体現者

 この逸話からうかがえるのは、ドリフこそがポスト黄金時代に登場した「テレビ芸」の体現者だったということだ。

 確固たる芸を持ち、その芸をテレビ向けに加工するというアプローチではなく、初めからテレビそのものに全力で向き合った。それこそが画期的なことだった。

 いかりや率いるドリフがテレビ芸に振り切ることができたのは、自分たちが舞台に立つ芸人としては「四流」であるという自覚を持っていたからだ。

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 いかりやは「芸が未熟だからテレビでは通用しない」と考えるのではなく、「芸が未熟だからこそテレビでは通用する」と考えた。

©iStock.com

『8時だョ!全員集合』スタート

 1969年、ドリフは運命の時を迎えた。ヒット番組を多数手がけていたTBSプロデューサーの居作昌果(いづくりよしみ)が、いかりやを寿司屋に呼び出し、新番組の企画を持ちかけた。それは、土曜の夜8時から公開生放送で1時間番組を作るというものだった。

 最初にこの話を聞かされたとき、いかりやは無謀な挑戦だと思った。理由は2つあった。

 1つは、公開生放送の番組を毎週やるというのに無理があるということ。そしてもう1つは、その枠では裏番組の『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)が人気を博していて、勝てる気がしないということだった。

 当時のコント55号は飛ぶ鳥を落とす勢いのスーパースターだった。彼らはアドリブ中心のコントを売りにしていた。事前にネタをしっかり作り込むドリフとは対照的な芸風だった。

 だが、居作は「だからこそ生放送なんだ」と答えた。まともにやってもコント55号に勝てるわけがない。公開生放送で勢いに乗って攻め切るしかない、と彼は考えていた。

 居作の熱意に押し切られ、いかりやは覚悟を決めた。こうして、1969年に『8時だョ!全員集合』が始まった。『全員集合』はあらゆる意味で規格外の番組だった。1969年から1985年まで全803回放送され、最高視聴率は50.5%。毎週観客を入れて公開生放送が行われていた。

 この番組の特徴は、前述の通り、いかりやのこだわりで毎週新ネタを作っていたことだ。そのための会議が毎週行われていた。

 ディレクターと作家が作った台本を見て、いかりやが「うーん」とうなって、しばらく沈黙する。簡単にゴーサインは出ない。