少し前までのお笑い界は高齢化が叫ばれていて、若い芸人はなかなか世に出てこられない状態が続いていた。だが、第七世代ブームによってその状況は一変。いまや第七世代がバラエティ界における1つの勢力となっている。

 そんなお笑い界における第一世代として必ず名が挙がる芸人といえば「ザ・ドリフターズ」ではないだろうか。彼らが残した功績、そしてメンバーの入れ替わりで新たに加入した志村けんに伝えられたものとは……。お笑い評論家のラリー遠田氏の新刊『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社)を引用し、ドリフがお笑い界に与えた影響について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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5人のキャラが確立された

 ドリフがポスト・クレージーキャッツと呼ばれながらも、クレージーキャッツとは違う形の笑いを確立する最初のきっかけになったのは荒井注だった。

 いかりや長介が寄せ集めたメンバーの1人だった荒井は、ピアニストを名乗りながらピアノをまともに弾くことができなかった。そんな荒井をいかりやが追い詰めたりいじめたりするようなくだりが爆発的にウケ始めた。

 荒井はメンバーの中でも最年長であり、いつもふてぶてしい態度を取っているので、いじめられても残酷な感じがしない。

 むしろ「なんだ馬鹿野郎」と反抗的な態度を取る。そこが面白かった。

 荒井のキャラクターが定まったことで、相対するいかりやの「横暴な権力者」というキャラクターも固まった。

いかりや長介氏 ©文藝春秋

 さらに、そんないかりやに頭が上がらない存在として加藤茶、仲本工事、高木ブーのポジションも決まった。

 5人それぞれの個性が際立ち、その個性を生かしてネタを作っていけるようになった。キャラクターさえ決まってしまえば、あとはシチュエーションや配役を変えることでさまざまなネタを作ることができる。これがドリフの笑いの原点になった。

 そして、この点こそが、ドリフが新ネタを量産できた理由でもあった。

アイデアの源泉

 長年ドリフと仕事をしてきた放送作家の田村隆が、企画会議で次から次へとギャグのアイデアが飛び出すいかりやに驚いてその秘訣を尋ねたところ、こんな答えが返ってきたという。

「設定を思いつくと、メンバーが勝手に動くんだよ。こうした方が笑えると思うと、そう動くんだ。それ以上の動きをすることもあるし。笑っちゃうヨ」(田村隆『「ゲバゲバ」「みごろ!たべごろ!」「全員集合」ぼくの書いた笑テレビ』双葉社)

 ここからドリフの快進撃が始まった。ドリフをメインにした冠番組が始まり、映画やレコードも立て続けにヒットした。

 60年代の「テレビの黄金時代」に構成作家を務めていた小林信彦は、「『全員集合』の作家をやってくれないか」といかりやに誘われたことがあった。だが、小林はこの申し出を断った。

 なぜならドリフの笑いが彼の好みではなかったからだ。今までに小林が見てきた黄金時代の芸人たちは、舞台の上でやっている芸を、テレビに出るときにはテレビ向けにあっさりさせて演じていた。

 一方のドリフはそうではなく、初めからあっさりしているように感じられたのだという。芸としての笑いをずっと追いかけてきた小林にはそこが不満だったのだろう。