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誰よりも笑いに貪欲だった志村けん

 当時、志村はメンバーの付き人をしていた。たまに脇役としてコントに出ることもあった。

 いかりやが志村を選んだのは、彼が笑いに対してほかのどの付き人よりも貪欲だったからだ。空き時間に「コンビを組んだのでネタを見てほしい」と言ってきたこともあった。

 半年間の引き継ぎを経て、1974年に荒井が正式に脱退し、志村がメンバーに加わった。

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 最初、志村は視聴者に受け入れられなかった。メンバーの中でも1人だけ歳が離れていて若かった。また、経験もなかったため、視聴者はこの見慣れない若者をドリフの一員としてなかなか認めてくれなかった。

 だが、転機が来た。東京都東村山市出身の志村が、地元のご当地ソングを面白おかしくアレンジした「東村山音頭」のネタを披露すると、これがまさかの大ヒット。そこから志村の快進撃が始まり、いつしかドリフの中心的な存在にまで上り詰めていた。

志村けん氏 ©文藝春秋

 いかりやによると、志村が加入してからドリフのコントの雰囲気が変わったという。それまでのドリフでは、前述の通り、それぞれの個性を生かしたネタをやっていた。

 志村が入ってからは、若い志村がスピード感のあるネタや感覚的なギャグを取り入れることで、ギャグのオンパレードという感じになっていった。

 番組末期の1982年頃になると、いかりやがネタ作りに疲れて、会議を降りると言い出した。そこからは志村が中心になってネタ作りを進めるようになった。このときすでにいかりやの緊張の糸は切れていた。

 その後、メンバーやスタッフの間でも『全員集合』はもう十分にやりきった、という空気が蔓延してきた。そして、1985年9月28日についにその幕を閉じた。

いかりやから志村に受け継がれたもの

 当時、いかりやと志村の間では確執も噂されていた。だが、いかりやは自伝本の中で志村についてこう書いている。

 音楽に関しては、二流か四流の集まりで、笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない。(いかりや長介『だめだこりゃ』新潮文庫) 

 素人集団に過ぎなかったドリフの中に、初めて現れた本物の芸人。いかりやは志村のことをそのように高く評価していた。不仲がささやかれていた2人だったが、いかりやは志村のことを誰よりも認めていた。