“奇跡の救出劇”の舞台裏
人々は事前の訓練通り、声を掛け合って集合場所に向かった。確認すると、9人が倒壊した家に下敷きになっていると分かり、約80人の集落は総出で救助を始めた。
機材はそれぞれの家から持ち寄った。不幸中の幸いで、町役場が前年の防災訓練で、屋根に穴を開けて救助する方法を伝授していた。閉じ込められた人を次々に救い出し、最後の1人を助け出した時に消防署の救助隊が到着するという素早さだった。
迅速な救助ができたのは、誰が機材を持ち寄り、どう役割分担するか、日頃の集落活動で手慣れていたからだ。10年ほど前まで毎年、各戸の持ち回りで親睦会を開いてきたので、家の間取りも全員の頭に入っていた。奇跡のような救出劇は、このような集落だから可能だったのである。
大切畑で唯一損壊がなかった建物は、2カ月ほど前に建てた集落共同の農業機械倉庫だった。機械を外に出して場所を空け、集落独自の災害対策本部を設置した。そして班分けをして、活動を始めた。
行政が乗り出す前に復旧作業は始まっていた
まず、作業班。ただでさえ狭く、軽トラック1台程度しか通れなかった集落内道路は、石垣の崩落などで人間が通るのがやっとの状態になっていた。道路を切り開き、各戸に入れる道を造成し、瓦礫(がれき)を取り除かなければならない。重機を調達して、ダンプは2台ほど借りた。作業は2組に分かれて行った。
そうした応急復旧の最中にも、集落へ入ろうとする車がある。最低限必要な車以外は入れないようにしなければ、そのたびに重機を移動するはめになり、作業が進まない。そこで高齢の男性が集落の入り口で交通整理に立った。「足が弱って作業に加われないから、せめて交通整理を」と志願したのだった。
水道班も設けた。大切畑には集落経営の水道がある。地震で破断した導水管を引き直すなどした。
記録班も作った。復旧作業や経費を写真や帳簿で残すのである。というのも、作業班や水道班が使う機材のレンタル料や材料費は全戸で出し合っていた。行政が乗り出すのを待てば経費は掛からなかったが、「小さな集落にはいつ来てもらえるか分からない」(坂田さん)と自力で取り組んだのだ。災害復旧はスピードが勝負である。
ただし、あとから補助対象になって、行政が経費を出すこともある。その時のために記録を取った。経験豊富な高齢者の発案だった。
メディアの取材は絶対に断らなかった。「『熊本地震の現場はこんなに酷い状態なのだ。ありのままの姿を全国に知ってもらおう』と、やはり高齢者から意見が出たのです」と坂田さんが説明する。こうして大切畑から窮状を切々と訴えるニュースが発信されていった。その結果、全国から救援物資が届くようになる。
小学校などの避難所には、他地区から身を寄せていた人も大勢いたが、大切畑の住民の中で責任者を決めた。「娘の家に身を寄せる」などという場合、滞在先を責任者に連絡してから動いてもらった。このため集落の人々の居場所は常に把握でき、連絡網も途切れることはなかった。