細かく事情を聞くと、集落で生まれ育った男性と、嫁に来た女性とでは意見が異なり、倒壊した自宅跡地での再建は女性の方が嫌がる傾向が見えた。ただ、住民は一様に「大切畑から出たくない」と言う。
このため村は、集落内に移転地を造成し、4戸が移った。
最終的に8戸が集落外に住居を求めたが、離れたあとも大切畑の消防団活動や共同作業に加わっている。「ゆくゆくは帰って来たいという人もいます」と山田係長は話す。
西原村の防災力はどう培われたのか?
それにしてもなぜ、ここまでの求心力があるのか。坂田さんは「行事をたくさん行っているからです」と言い切る。
1月には自治会の初寄り、どんどや、出初式がある。2月は女性だけの先祖祭り。3月は原野の山焼き。4月は敬老会、親睦会。5月は村内で一斉に行われる村道の草刈り……。こうして毎月のように行事があり、人々はそのたびに顔を合わせて、力も合わせる。発災時の救助や応急復旧作業は、その延長線上にあった。
山田係長は「団結して先に進んでいく力は村内でも大切畑が随一です。地震からの復旧・復興ではモデル地区のようでした。村内の各地区にはいい意味での競争意識があるので、大切畑の先例に学んだり、追いかけたりすることで、村全体の復旧・復興が進んでいきました」と話す。
各地区の競い合いという面では、村の一大行事がある。毎年5月と9月に行われる道路品評会だ。村道の草刈りを全地区で一斉に行い、その美しさを競うという全国でも珍しい取り組みである。仕上げまでに3段階で草を刈る地区もあり、品評会後の村はため息が出るほどきれいになる。こうした地区同士の競い合いには、地区ごとの結束力を高める作用がある。
西原村の防災力は、人間の深いつながりに基盤があるのだろう。「いかに財源を投じても、どのような施設を整備しても、これだけは得られません。日頃の暮らしそのものが大切なのです。その意味では、私達の震災遺構は地域コミュニティです。『語り部』として型にはまった話をするのではなく、地区の皆さんとざっくばらんに本音で話をしてもらいながら伝えていきたいと思います。私達が目指すのは『話し部』です」と山田係長は力説する。
熊本地震の被災建物は民家が多く、「遺構」として適当な施設がない地区が多い。そうした面では、西原村のような語り継ぎスタイルが現実的なのかもしれない。
本震で庁舎が壊れた宇土市
「ソフトの遺構」の伝承に取り組む地区は、他にもある。
例えば、同県宇土市だ。4月16日の本震で、5階建ての市役所の4階部分が潰れた。庁舎そのものに倒壊の恐れが出て、職員は庁内に入れなかった。肝心な時に災害対応の拠点を失ったのだ。