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「落ちるところまで落ちた」約9割の住宅が全壊…熊本県の“壊滅集落”は5年でどこまで復興した?

熊本地震“復興と傷跡”を追う #3

2021/04/15
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 農業機械倉庫に置いた災害対策本部では、毎朝8時から会議を開き、全戸が集まった。ここで情報交換し、その日の作業内容を決めた。

 まるでミニ版の村役場のようにして災害を切り抜けたのである。

「落ちるところまで落ちた。これからは……」

 そこまですれば、しんどい面もあった。若手の消防団員は泥棒対策の夜警で、災害対策本部に泊り込んだ。このため倒壊した家から畳を引っ張り出し、寝られるように畳の間を作った。

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 昼間の作業では泥だらけになる。風呂に入りたいという声が出ると、壊れた家から風呂を引っ張り出して、入れるよう設営した。当初は大きな鍋で湯を沸かしていたが、手作りで徐々に充実させ、最後は公民館にユニットバス、洗浄機付きトイレ、洗濯機まで設営した。

大切畑を通る道路の橋もずれて通行止めになったが、現在では修復されている(西原村大切畑)

「必要なものを工夫して作るうちに、私達は被災下の暮らしに楽しみを見いだすようになっていきました。家が潰れて落ちるところまで落ちた。でも、これからははい上がるだけだと、気持ちを前に向かわせたのです」と坂田さんは話す。

 住民は80人ほどでも、集落には多種多様な人材がいる。前述したように、それぞれができることを行い、適材適所で力を合わせるのが大切畑のやり方だ。旗振り役も皆を引っ張るタイプの適材がいた。坂田さんである。区長は持ち回りなので、発災時は別の人が務めていた。17年になればいよいよ復旧・復興が本格化する。そこでルールを変更して坂田さんが区長になった。通常は1年の任期だが、特例で17~18年の2年間務めた。

復興に向けて全住民にヒアリング

 坂田さんは就任前の16年12月から動き出した。復興計画を策定するのに、任期が始まるのを待っていたら遅れてしまうからだ。委員には女性や若手に入ってもらい、役場の課長も呼んでたたき台を作った。現実的な案にするには、役場とのすり合わせが必要で、集落で検討したあとで役場に確認していたら時間がかかってしまう。どうせなら課長に同席を求め、ざっくばらんに皆で話し合った方がいいと考えた。

 坂田さんは、この場で出た案を秘密にせず、「どんどん漏らして、人に会ったら全部話してほしい」と委員に言った。そうすることで策定段階から多様な意見を盛り込めるからだ。復興計画づくりはとんとん拍子に進んでいった。

行事が多いだけに、何かあれば集まる。被災後、新しく建てられた集会施設「みんなの家」は消防団詰所との合築だ(西原村大切畑)

 こうした動きを受けて、役場は大切畑の全戸に対して聞き取り調査を行った。復旧・復興に対してどのような考えを持っているか確認したのである。ヒアリングの場には、家族全員で来てもらった。

「家族の意見は皆が同じとは限りません。代表者だけだと、あとで違ったなどと言われることがあるのです」と山田係長は語る。1戸当たり50分。各戸にとっては短いが、全戸に行うとかなりの時間になる。住民と役場の距離が近いから、ここまでできたのだろう。