いまや世界をリードするIT先進国へと成長したいっぽう、習近平政権下で厳しい情報統制と強力な監視社会化が進行中の中国。なかでも現体制の大きなタブーであり続けているのが、「党の軍隊」である人民解放軍が、1989年6月4日未明に市民や学生の民主化運動を武力鎮圧して大量の死傷者を出した六四天安門事件だ。30年以上を経たことで、当時を体験した人たちの多くは口を閉ざし、事件は風化が進む。

 ここでは、第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞をダブル受賞した安田峰俊氏の傑作ルポに、新章を追加した『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(角川新書)を引用。1989年の天安門広場に足しげく通っては、デモに参加する学生に差し入れを送り、応援を続けていた張宝成氏が体験した事件当夜の惨劇の実態を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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追悼活動がやがてデモに

 毛沢東が死に、高校と専門学校を卒業した張宝成は小さな家具会社を開いた。

 六四天安門事件が起きたのは会社を作って3年後、29歳のころである。中国ではそれ以前の1986~87年にも学生運動があり、知識人を中心に政治や経済の改革を要求する気運が出ていた。

「四五とは違って(注:文化大革命末期の1976年4月に起きた第一次天安門事件)、デモをやったのは学生だった。俺はもう社会人だったから、水や果物を差し入れして応援する立場だったよ。当時の市民にはそういうやつが多くいた」

 1989年4月15日、改革派の指導者だった胡耀邦が死去した。翌日から学生の追悼活動がはじまり、やがて大規模なデモになった。張は4月下旬までに、毎日現場に行って声援を送るようになった。

「リーダーの王丹やウアルカイシもこの目で見たよ。二言三言だが、言葉を交わしたこともある。感想かい? あの当時の大学生は知識人のタマゴだってんで、言うなりゃ将来の博士様か大臣様よ。俺たち庶民にとっちゃ尊敬の対象だった。熱い心を持った凄え若者が大勢いる、こいつらはホンモノの英雄なんだ――。って思いしかなかったな」

 デモは自然発生的に広がった。当初、共産党当局はこの運動にいかなる態度を示すべきかを決めかねており、党総書記の趙紫陽や全人代常務委員長の万里など、デモに同情的な心情を持つ改革派の幹部も多かった。だが、保守派の総理・李鵬を中心とした反発の声もやはり大きく、やがて最高指導者である鄧小平の意向も彼らの側に傾いた。