学生組織は分裂、統制が取れなくなり…
だが、5月後半になると風向きが変わってきた。
民主主義や自由を求める、濃厚な政治性を持つスローガンが増えはじめたのだ。後世の記録では、学生組織が分裂して主張の一貫性がなくなり、地方から上京した学生が広場に多数流入して「統制が取れなくなった」と評された時期である。一方で当局は北京市内に戒厳令を敷き、緊張感が高まった。
「国外の報道を多く聞くようになって、ひょっとして党体制がぶっ倒れるんじゃねえかと思いはじめた。だが、一方でデモ側の主張は混乱していたし、新しい参加学生たちには、マナーが少しばかりいただけねえ連中も増えてきた。市民はなにも明確な考えを持っちゃいなかった。『こりゃあ成功するわけねえよ』とも思っていたね。気持ちは複雑だった」
当時の妻(後に離婚)には「こういう運動に参加すれば後で必ず捕まるから行かないで」と止められた。長女が3歳になったばかりで、そのことも張宝成の気力を削いだ。
だが、それでも今後の展開が気になり、彼は天安門広場に通い続けた。
1989年6月3日――。
後に現代中国史上の汚点となる武力鎮圧の夜は、彼らのそんな日常の先にやってきた。
武力行使を容認した党の無血退去作戦
張宝成はこの日の午後も天安門広場にいた。もっとも学生が固まる中心部ではなく、周辺の野次馬のなかに混じっていたという。
党内部の流出資料を含むとされる『天安門文書』(文藝春秋、2001年)によれば、ちょうどこのとき、鄧小平を除く中国共産党の最高幹部たちは緊急会議を招集していた。午後4時から始まった会議では、李鵬らによってここ数日間に戒厳部隊と市民や学生との小競り合いが頻発している事実が報告され、同日深夜(4日)の午前1時から朝6時までに広場の学生を平和的に立ち去らせることが決定された。同時に、戒厳部隊が移動する途中で「妨害行為」に直面した場合には「必要とするすべての」手段で対応し、広場からの無血退去作戦を必ず遂行することも全会一致で決定された。
この夜、広場内部で虐殺が起きなかったことは、現場に最後まで残っていた台湾人歌手の侯徳健や、広場内の学生の無血撤退に尽力した文学者の劉暁波など複数の当事者が証言している(ただし2017年10月に明らかになった英国大使館の機密文書には広場内での虐殺を示す詳細な記述があり、議論は再燃している)。ともかく、六四天安門事件において最大の悲劇の舞台となったのは、郊外から天安門広場まで東西を貫いて延びる大道路・長安街の沿線をはじめとした市内の各地だった。
先の党内緊急会議の決定は、要するに人民解放軍と武装警察が学生の無血退去作戦を実行するために、道中での武力行使を事実上容認する方針を示したものだった。