銃口を向けられた、あの夜
午後9時過ぎから、戒厳部隊の多くは東西南北の各ルートを通って市内への進軍をはじめた。テレビは盛んに市民の外出禁止を呼びかけた。
広場周辺にいた張宝成が、軍の動きを知ったのはその1時間後である。
「兵士が銃をぶっ放しやがった、って話が聞こえてきた。当時、俺は姉妹と一緒にいたんだが、どうやら真剣に危ねえようだから家に帰ろうって話になったんだ」
結果的に言えば、情報が乏しいなかで彼らが下した判断は危険極まりなかった。なぜなら当時の張の自宅は、広場から長安街を12キロ西に向かった玉泉路にあり、戒厳部隊の主力「西線」の進行ルートと完全に同じ道を逆走する形になったからである。この西線部隊は北京軍区の三八軍・二七軍・六三軍からなる約2万人で、戦車や装甲車など軍用車両数百台を擁する精鋭の機械化軍団だった。
乱射を受けて路上は血の海に
広場からしばらくは自転車で移動できたが、途中の西単では戒厳部隊の市内侵入をはばむためにバスが路上に放置され、混乱した通行人が立ち往生をして進めなくなっていた。それでも人込みをかき分けて徒歩で前進し、ついに広場から西5キロにある木樨地に至った。
――木樨地。
市民や学生数千人が戒厳部隊に抗議してこの場所に集まった結果、天安門事件で最多の死傷者を出したとみられている地名である。『天安門文書』所収の国家安全部「重要情報」は、ちょうど張たちが現場にさしかかった同日午後11時ごろの現地の状況をこう報告している。
建物のあいだや、車道を区分している緑地帯の低木に身を隠していた市民や学生は「ファシスト!」「人殺し!」「悪党!」などの言葉の弾幕を張り、部隊に石塊を投げつづけた。兵士たちは(注・抗議者が路上をふさぐために停めていた)数台のトロリーバスとその他の障害物を片づけると、再び銃口を群衆に向けた。石塊を身に受けて自制心を失った一部の兵士は、「ファシスト!」と叫んだり石塊やレンガ片を投げたりする者には、見境なく乱射し始めた。少なくとも100人の市民と学生が路上の血の海に倒れ、その大部分は仲間たちの手で近くの復興病院にかつぎ込まれた。
頭上を旋回するヘリコプターの爆音と路上の射撃音。復興門外大街に住む市民は家の窓から兵士に悪態をつき、物を投げつけた。このため兵士はさらに撃ち返した。木樨地と全国総工会本部とのあいだの約500メートルの道の両側に建つビルに弾丸が当たってあちこちに跳ね返った。その夜、(注・路上以外でも)22号と24号部長級宿舎に住む3人が被弾して死亡した。