天安門事件における人民解放軍の作戦目的は、天安門広場内部の学生を無血排除することであり、当初から市民や学生を発砲する意図はなかった。当局側の報告書には、そうした記述が残されている。同様の見方をする識者も決して少なくない。
しかし、当時天安門広場に通い続けていた凌静思氏(仮名)は上記の見解を覆すような目撃談を語る。ここでは、ルポライターの安田峰俊氏による傑作ルポ『八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ』(角川新書)の一部を抜粋。凌氏の証言を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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修羅場となった病院
母が入院したのは、北京地下鉄1号線の西単駅と復興門駅の中間、民族飯店(天安門広場から2キロほど西にあるホテル)の裏手に位置する郵電医院だった。
6月3日の夕方も、凌静思はバスで母の見舞いに向かった。途中、六部口の辺りで銃を持った兵士の集団を見たが、あれは威嚇のためだろうと乗客たちが話していた。この日の夜に鎮圧がはじまることは、まったく想像していなかった。
「おかしいと思ったのは、夜10時ごろだった。とにかく『空気が違う』感じだったとしか表現のしようがない。外に見に行ったら、学生や市民と武装警察(武警。日本の機動隊に近い組織)が小競り合いを起こしていた。レンガを頭に受けて倒れた武警に市民が殴りかかろうとしたから、私と他の学生たちで騒動を仲裁した。そして、私は怪我をした武警を連れて病院へ戻った。彼は18歳の男だった」
負傷した若い武警を連れて郵電医院に帰ると、院内はすでに修羅場となっていた。
はやくも市の西方の公主墳のあたりで、民衆が戒厳部隊の先鋒に打ち払われ、その怪我人たちが民族飯店付近の病院にまで大量に搬送されてきていたのだ。公主墳は天安門広場から西に7.5キロの地域である(ちなみに公主墳周辺の民間人の死者や負傷者は、人民解放軍の正規部隊の露払いを務めた武装警察による被害と思われる。この「西線」ルートを進む解放軍が発砲したのは、前編で張宝成が目撃した木樨地以東の地域とされている)。