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「ただ正直な人間でありたい」

 凌静思が50歳を過ぎても心の純粋さを失わずにいる理由は、往年の熱心さや惨劇への強烈な憤りや、生来の生真面目な性格によるところも大きい。

 だが、1989年の天安門広場で撮影された写真と、現在の凌との最大の違いは、彼がどこか寂し気で影の薄い雰囲気を纏うようになったことだ。私がこれまでの取材を通じて出会った、彼と同年代の男たちが、社会の第一線にいる人間に特有の精力的な匂いをプンプンと漂わせていたのとは大違いだ。

 凌は当時と同じ夢と理想を抱いているが、その感情を包む精神的な外形が大きく変わっている。その理由はおそらく、彼が青年時代の終わりから精神的に独りぼっちで暮らす人生を余儀なくされたことと無関係ではないだろう。

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 凌が他の中国人のように、時流に流されていないのは当たり前かもしれなかった。

 やや酷な表現が許されるならば、凌はかなり以前の時点から、現在の時間を生きる行為をやめているのではないだろうか。

天安門 ©iStock.com

 資料室を辞去してから、帰路に取材のお礼の連絡をおこなうと、すぐに返事が来た。

「真相を埋もれさせてはいけない。これが後世の人間の共同責任だ」

「私は出世もしたくないし金持ちにもなりたくない。ただ正直な人間でありたい」

 ――白鳥はかなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ

 夏の北京市内を歩きながら、ふと若山牧水の短歌を思い出した。中国共産党が支配する紅い都の片隅の書庫に、そんな立派な人が隠れ棲んでいた。

 凌静思の心は、広場を掃除していた青年時代と同じように清らかでまっすぐなままだ。

 ただし彼の感情は、すでに同年代の多くの中国人とは共有が難しくなっている――。

 私は複雑な思いで、投宿先のホテルへの道を辿ったのだった。

【前編を読む】「肉味噌のようにすり潰された死体が路上に」六四天安門事件”最大の激戦地”から生還した男の回想