移動先の病院にも地獄絵図が…
やがて戒厳部隊は凌がいる病院の周囲の路上まで進撃し、近所で銃撃された人たちが続々とやってきた。
凌はそのまま阿鼻叫喚の巷となった病院のホールに残り、負傷者たちの搬送を手伝いはじめた。
「怪我人だらけだった。道路沿いの平屋建ての家に住んでいたせいで、室内で流れ弾に当たった主婦もいた。死んだ人も見た。あと、当時の私が事務仕事に通っていた理工大の先生も、軍の誤射で脚を負傷してこの郵電医院に来ていた。この人は運動に参加したわけではなく、奥さんの家に行った帰りに歩いていて撃たれたらしい。ほかに理工大の学生が、左の鎖骨を撃たれてやってきた。彼は軽傷だったと思う」
救急患者の急増に病院の処理速度が追い付かず、凌静思は点滴を腕に刺したままの理工大の先生に付き添って、北北東に3キロほど離れた積水潭医院へと移動することにした。
当初は三輪自転車タクシーの荷台に先生を乗せる予定だったが、たまたま郵電医院に、妻の出産を控えて自動車で乗り付けてきた人がいたので、その人に車で送ってもらった。国産の「上海」(SH760)という車種だった。
だが、先生が運ばれた場所も相変わらずの地獄絵図が広がっていた。
戦車に轢かれて左足がなくなった学生
「積水潭医院の近くに、バスケットコートくらいの広さの講堂があったんだ。その床が全部、負傷者で埋め尽くされていた。ひどいありさまだった」
臨時の野戦病院となったこの講堂は、武力鎮圧の「戦線」からやや遠い。助かる見込みのない者は搬送されない場所であり、床に転がる人間たちはいずれもまだ息があった。学生はもちろん、デモとは何の関係もなさそうな中年の男女や、子どもも多くいた。
「白いシーツの周りに4~5人の大学生が集まっていた様子を、いまでも覚えている。輪の中心に、戦車に轢かれて左足がなくなった学生がいた。意識はしっかりしていて――。『救救我(助けて)』と、驚くほど大きな声で何度も繰り返していた」
凌が所持品を見ると、湖北省の武漢大学の方剛という男だった。デモを聞きつけて上京した、外来組の参加者だと思われた。
「付き添いの女の子がワンワン泣きながら、医者に『絶対に助けてあげて』と繰り返していた。みんなで彼を戦車のキャタピラの下から引き出して、ここまで運んできたと言うんだ」
方剛のその後は不明であり、事件後に香港などで発表された、氏名が判明している200人ほどの犠牲者リストのなかにも名前がない。現在は足を失ったままどこかの街で暮らしているのかもしれない。