平成を代表する歌姫としてミリオンセラーを連発。彼女のスタイルを真似する言葉としての“アムラー”が流行語大賞を獲得。日本人女性アーティストとして初のアジア5ヶ国CDチャート首位独占……。安室奈美恵は、芸能界を引退する瞬間まで、数々の伝説を残し続けてきた。
そんな彼女を語るうえで欠かせないのが、大きな影響を受けたジャネット・ジャクソンの存在だ。ここでは音楽ジャーナリスト若杉実氏の著書『Jダンス JPOPはなぜ歌からダンスにシフトしたのか』(星海社)の一部を抜粋。“脱小室家企画”によるファン離れも経験した彼女が、いかにして“安室像”を再構築し、華々しい成功をおさめられたのか。その足跡をたどる。(全2回の1回目/後編を読む)
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渋谷の歌
90年代中葉、小室がつくった“渋谷の声”はそのまま“小室ファミリー”となって増産体制に入った。篠原涼子、観月ありさ、大賀埜々、内田有紀、華原朋美、鈴木亜美、そして「“育てた”といえる唯一の歌手」と本人が語るKEIKO(globe/元・妻)……。
すべてを列挙すればキリがないが、その中でもひときわ“おおきな声”にわたしたちの耳は鋭く反応させられることになる。換言するなら“渋谷の声”にかぎりなく近い“渋谷の歌”として受け止めた。
小室が安室を初めて観たとき、彼女はテレビの中で白い歯を見せながら飛んだり跳ねたりしていた。1993年、デビューのきっかけとなったスーパー・モンキーズの一員として出演した菓子のCM。その15秒というかぎられた時間内で、小室が彼女の才能を吟味するためにはいくつかの条件がそろわなくてはならない。結論を先にすれば、このとき小室は“印象”として脳裏に刷り込ませるにとどまる。
それから2年後、モノクロだった印象にふたたび色づけされる日がくる。音楽バラエティ番組『THE夜もヒッパレ』(1995~2002年)にレギュラー出演していた安室(withスーパー・モンキーズ)が、TRFの曲を歌った回を目にした小室。その瞬間、記憶の歯車が音を立てる。彼の回想。「“TRFの曲ならすべて歌って踊れる”そういう自信がみなぎっていた」。
ただしその“自信”も、安室みずから手にしたものとはかぎらない。デビューから8枚目(スーパー・モンキーズ含)にしてレコード会社をエイベックスに移籍していたことを踏まえると、松浦(勝人/現エイベックス代表取締役会長)の影がちらつく。そう考えるのはとうぜんであり、その裏づけとなる事象はこのあと列をなして待っていた。番組出演中に発表した新曲「TRY ME ~私を信じて~」(1995年)は松浦のプロデュースによるユーロビートであり、これがエイベックス移籍の布石となる。そして両手をひろげそこで笑みを湛えていたのが小室だった。
小室ファミリーに向けての“揺籃期”
「TRY ME ~私を信じて~」とそれにつづく「太陽のSEASON」「Stop the music」(いずれも1995年)はユーロビート3部作と呼ばれているが、安室側に視点を移せば小室ファミリーに向けての“揺籃期”ともいいかえられる。ユーロビートに対するダンスはTRFによって確立されており、小室の言を突き合わせるなら“完コピ”をすでにしていた安室にとって難儀というほどではなかったことになる。
ただしヴォーカルとダンスにセパレートされたTRFに対し、安室とスーパー・モンキーズは全員がヴォーカル+ダンスを担当。ダンス専門のSAMが「速すぎる」と苦心しながらも、自分たちのダンスにしていった結果生まれたスタイルをそのまま踏襲したのか、詳細はわからない。歌いながらユーロビートに合わせるには高度な技術を要することはまちがいなく、ユーロビート3部作以前の4枚のシングル(「恋のキュート・ビート(カップリング曲「ミスターU.S.A.」)」「DANCING JUNK」「愛してマスカット」「PARADISE TRAIN」)とは異次元の世界であった。