昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/04/28

ユーロビートをダンスで

 ユーロビートに合わせるダンスは、TRFのようなプロをのぞけば一般的に“パラパラ”と呼ばれるものがスタンダードになる。注意しなければならないのは、TRFや安室が踊っていたスタイルは“演者が表現したユーロビートのダンス”であり、クラブでDJが流すユーロビートに合わせて踊るパラパラとは異なる。SAMが試行錯誤したようにダンサーは“創作”という時点で、ユーロビートあるいは音の一部であるという意識を自分に課している。プロとアマチュアという分岐点ではなく、“送り手”と“受け手”のちがい。語を変えるなら“ユーロビートを踊る”(目的)か、“ユーロビートで踊る”(手段)か。したがって理屈上において、双方の境界線はプロアマ問わず越境できることにはなる。

 ダンスは肉体表現であり、意識だけで踊りが上達するものではない。しかしこのときの安室にとって、いくつかある課題のうち“意識の入れ替え”は重要な部類に入るものだったとおもわれる。並外れた身体能力をすでに所持していたものの、デビューにあたってその能力は実際に役立つものとはいえなかった。「ジャネット・ジャクソンのようになりたい」と公言していた話がよく知られているように、デビュー時から安室がめざしていたのはブラック系。しかしそれとは異なるレールをレコード会社が用意したため、短期間で軌道修正する必要があった。

路線変更は奇しくもSAMとも相似する

 ここでおもいあたるように、MEGA-MIXからTRFへ鞍替えしたときのSAMとおなじような境涯だったことがわかる。ただし芸能界であるていどキャリアを積んでいたSAMとは安易にくらべられるものではない。芸能界において“色”の染まりぐあいが控えめだった当時の安室にはあらゆる面で“伸びしろ”があり、そこに将来性を見出す者が彼女を包囲することになる。

 たとえば所属事務所であるライジングプロダクションの社長・平哲夫。ユーロビート3部作をプロデュースしたのは松浦だが、そこに平の後押しがあったことは見逃せない。かつては所属する荻野目洋子に同属のハイエナジー(1985年「ダンシング・ヒーロー」)を歌わせブレイクさせた前例が彼にはあった。そのときの成功体験を安室にも生かそうと考えるのは自然なことであり、結果としてジャネットがアイドルだった安室の視界を外部から変えるにも得策となったにちがいない。