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飛田大門通りの高級店で働き、身請け話が出たが破談に

 彼女は飛田大門通りの「御園楼」という高級店で、「園丸」を名乗り、1年余り働いた。その時のことを、事件後の予審訊問の際にこう述べている。

「御園楼は当時大阪で一流の店であったし、私も売れて3枚とは下らず(売れっ子ナンバー1か2をキープし)、可愛がられておりました。そのころから、私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから、御園楼ではおもしろく働きました。

飛田新地からほど飛田本通商店街 ©️永田収

 1年くらい経ったころ、ある会社員の客が私を落籍(身請け)してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ったため、落籍の話は駄目になり、客から堪忍してくれといわれ、金をもらったことがありました。

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 それで少し腐っているところへ、紹介屋におだてられたので、翌年早々、23歳の時、名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に、前借2600円で住み替えました」

名古屋に住み替えたものの、再び大阪に舞い戻り下級店落ち

 住み替えた名古屋の「徳栄楼」では、「逃げれば、お前の親の家作を差し押さえて一度に取る」と言われ、恐ろしかったという。そこでは2年ほど働いたが、チフスを患って嫌になって、再び大阪に舞い戻り、今度は松島遊廓の格の低い「都楼」に2000円ほどの前借金で勤める。しかし、客筋の悪さに嫌気がさし、東京へ逃げ帰るが、都楼から探しに来た男につれ戻され、丹波篠山(兵庫県)の「大正楼」に売られる。寒い冬の晩でも外へ出て、客を引っ張るような辛い勤めが待っていた。どんどん下級店に落ちていったのだ。

飛田新地の一角 ©️永田収

 大正楼を抜け出した後は、「今さら堅気になっても追いつきません」と、高等淫売(楼や置屋に属さず、1人の主人と組んで売春する人のこと)になったり男に囲われたりを、東京・日本橋、三ノ輪、浅草、名古屋などで繰り返した挙げ句に、事件を起こしたのである。

 阿部定は飛田時代を、「おもしろく働きました」と述懐したが、売られてきた女性たちが毎日泣いて暮らしていたのかというと、そうばかりでもない。

 刑務所のような高塀で囲まれ、一般社会と隔離された飛田では、当初、外の世界との出入りは大門でしかできず、娼妓が外に出るには大門交番に届出が必要だったが、客や業者らが「不便」という単純な理由から、1930年(昭和5)4月に北門、南門、西門が開かれ、“外”と“中”の距離が少し縮まった。