美しい部屋、3度のご飯、正絹の着物
戦前、飛田の娼妓たちはどんな生活をしていたのか。
「居稼(てらし)」だったから、楼(貸座敷)に1人1部屋を与えられ、そこが彼女らの職住の場だった。多くは床の間が付いた4畳半(京畳なので、現在の6畳ほどの広さ)。鏡台、箪笥、座卓、寝具などを置いた、美しい部屋。それは、彼女らのそれまでの人生の中で、最もゴージャスだったはずだ。
飢える心配はない。3度の食事を賄いのおばさんが作ってくれる。娼妓たちに脚気や栄養失調などで倒れられては元も子もないと、白米も与えられたのだ。基本は一汁一菜だが、紋日には魚もつく。親方に言われるように、お客に台物(だいぶつ=店屋物)をねだると、かなりの確率で、天ぷら、寿司、丼ものなどご馳走を食べることもできた。
着物も、田舎で銘仙柄の木綿の着物が一張羅だったのと大違いだ。初めて正絹に袖を通す。出入りの呉服屋が担いで来た反物の中から、「あんたにはこれが似合うんと違う?」と、楼主やおばさんに言われて品定めをする“いい家のお嬢さんのような経験”も、生まれて初めてだ。
以上は、戦前の飛田で「遊んだ」ことのある、元材木商の吉本喜一さん(1924年~)と漫画家木川かえるさん(1922年~2005年)から聞いた話の総合である。
「言うことをよう聞いて、よう働き、稼ぐ子はかわいい」
娼妓たちは、楼主を「親方」「マスター」「お父さん」と呼び、絶対服従である。大きな楼には20人近く、小さな楼にも複数の娼妓が住んで働き、楼主を「家長」としたファミリーが構成された。
「ほんま、女の子は娘と同じだっせ。一口に言えば、子どもです」
と飛田の元経営者、奥田さんは繰り返した。自分の娘と同じように慈しむという意味にもとれるが、自分の所有物という意味にもとれる。
「言うことをよう聞いて、よう働き、稼ぐ子は、そらかわいいですわな」
奥田さんは、そう続けた。
大阪の遊廓での花代の分配は、東京・吉原遊廓などの楼主「6」対娼妓「4」よりも遥かに娼妓に有利な「4対6」だったとされている。だが、それも名目だけだった。楼主は娼妓に、部屋代、食費、衣装損料、席費、寝具損料および前借金の返済金のほか、「花1本」につき5銭8厘(1937年の場合)の手数料を上納させたので、結局は何年経っても前借金がほとんど減らない。おまけに、きちんとした勘定帳も、給与明細もなく、あったとしても、娼妓の多くには解読する学力がないから、いくら稼げたのか、いくら借金が残っているのかが、ほとんど分からず終いだった。絶対服従の存在である楼主には訊けない。彼女らは、「遊廓の中がすべて」もっと言えば「楼の中がすべて」な人間に育てられていったのだ。