私は救急車を呼び、警察にも電話を入れた。遺体を見るのが初めてではなかった私は、草野さん同様、平然としていた。言い方は悪いが、なんの感情も湧かなかった。この時点では、私の頭の中は「行き倒れ(*2)」だったのである。
*2 法律的にいうといわゆる「行旅死亡人」というのに当たる。身元もわからない死体は警察に通報するよりない。管理員としては「人が倒れています」と言われたところでどうしようもないのである。
「おそらく飛び降り自殺でしょう。あの上から飛び降りたんです」
草野さんは、まだ明けきらない空に聳えるビルの先端を指さして言った。
しかし、2メートルを超えるあの柵をよじ登ることができるだろうか。ゴム底の地下足袋を履いてでもいない限り、あれを越えるのは不可能ではないか。
救急隊員がやってきて即座に人工呼吸(*3)を始めた。が、救助できる見込みがないと悟ったのかすぐにやめた。
*3 テレビドラマなどでやっている人工呼吸とは違って、ホンモノのそれはあばら骨が折れるほどの力で押すのだと初めて知った。救急隊員は5~6回も押したかと思うとすぐにやめてしまった
その後、数人の警察官や刑事らしき人がやってきて、防犯カメラを見せてくれと言う。何度も巻き戻してたしかめると、駐輪場のモニターには足の先が落ちていくのだけが映っていて、その動きでなにが起こったかがわかった。
実際にバウンドしているところは見えなかったが、一旦駐輪場の屋根にぶつかり、その反動で後ろのめりになったまま、身体ごと地面に叩き付けられたのだと想像できた。
上階に行っている警察官と携帯無線でやりとりしていた刑事が「やはり間違いないな」とひとり言のようにつぶやいたあと、私に「飛び降りです」と言った。
「13階の擁壁によじ登った痕跡がありました。靴跡も一致しています」
自殺者は、14階の手すりを越えられず、その下の階から飛び降りたのだ。
施設管理者として管理組合の責任は理事長にある。他人事ながら、理事長も心を痛めたに違いない。人の死というのは、それが他人のものであっても、人の気持ちを沈ませるものである。
死にたいという人の心を救う手立てなど思いつきはしないが、せめてなんとか防ぐことができなかったかと家内と話し合っていたのだった。
家内いわく、「若い身空でほんともったいないわね。昼間だったら、まだとめる余裕もあったんだろうにね」。
たしかに、われわれが寝静まった真夜中にことを起こされたのでは手の施しようがないのであった。
エレベーターを行き来する不審な若者の姿が
そんなことがあってから、数年をすぎたころだった。
エレベーターに乗っては最上階に行き、下に降りてきてはエントランスを出ていく若い男性がいた。歳の頃は24~25歳くらいだろうか。今どきの若者の格好をしている。その行動を奇異に思ったのは家内だった。