由紀夫さんが死亡1週間前以降の状況
由紀夫さんが死亡したのは1996年2月26日のこと。その1週間前以降の状況について、論告書は続ける。
〈松永は、由紀夫に対し、木製のすの子で作った檻に閉じ込め、腕に通電していた。この時期以降、由紀夫の腕は、肩の高さに上げることすらできなくなり、力が抜けたようになった。
松永は、リハビリと称して由紀夫に通電していた。しかし、松永は、由紀夫の腕が動かない様子や、通電を受けて苦しむ由紀夫の真似をして喜んでいたので、単に通電を楽しんでいたようであった。
松永は、由紀夫を台所に呼び出しては通電を繰り返していた。このころの由紀夫は、前記の「下駄」等も、足が不自由なために自分では動かせなくなっていた。松永は、由紀夫の動作が鈍いことに対して怒り、なおも通電していた〉
ここで出てきた「下駄」とは、松永が由紀夫さんが室内を移動する際に、その足が直に床に触れることを嫌って、すの子や段ボールを使って作成した履物のことである。腕が動かなくなった由紀夫さんの食事状況については次のようにある。
〈松永は、甲女に対し、由紀夫の食事を手伝うよう命じた。由紀夫は手が動かず、1人では食事もできなくなっていたからだった。しかし、松永は、時間制限は解除しなかったので、甲女は、由紀夫に時間内に食事を取らせるため、水で流し込むようにして由紀夫に食べさせていた。由紀夫は、うまく咀嚼できず、もっとゆっくり食べさせてくれと甲女に目で訴えていた〉
このように、当時の状況を説明する内容が具体的なのは、その場に立ち会っていた清美さんと緒方の供述を精査した結果である。また、それと同時に、松永には写真による記録癖があったようで、由紀夫さんがいた「片野マンション」(仮名)30×号室内での状況を撮影した写真が数多く残されており、すべてのプリントやネガが押収されていた。
その内容については論告書に詳しい。以下、時系列で紹介していく。