『WHAT IS LIFE? 生命とは何か』(ポール・ナース 著/竹内薫 訳)ダイヤモンド社

 最も影響を受けた本は何かと科学者に聞くと、多くの人が挙げる本がある。理論物理学者E・シュレディンガーの『生命とは何か』(一九四四)だ。

 DNAの二重らせん構造を誰も知らない頃、シュレディンガーは予測した。森羅万象、秩序あるものは熱力学第二の法則に則り、時間と共に無秩序や混沌へ向かう。だが生命は何世代にもわたり秩序と均一性を保ち続ける。なぜか。遺伝子の構造と物質のふるまいを物理と化学で説明すれば、解明できるのではないかと。

 これに衝撃を受けたワトソンとクリックらが謎に挑み、分子生物学が花開く。細胞周期の研究でノーベル賞を受賞したポール・ナースもこの文脈に位置する生物学者で、シュレディンガーへのオマージュとして同名の本書を著したという。

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 ただナースは遺伝子だけで生命の本質がわかるとは考えない。軸となる考え方は、(1)細胞、(2)遺伝子、(3)自然淘汰による進化、(4)化学としての生命、(5)情報としての生命、の五つ。階段を上るごとに、分子で生命を読み解こうとした二十世紀的生命観から、細胞を通して理解しようとする新たな生命観へアップデートされる構成になっている。

 生命は細胞から成り、細胞は外膜を通じて外の環境と連絡を取り合い、秩序を保つ。細胞の核にあるDNAの正体がたんぱく質を暗号化するDNAヌクレオチド塩基の鎖と判明するや、遺伝子暗号を解読する研究が盛んになる。ナースが細胞周期を研究するようになったのもこの頃だ。

 細胞の代謝を司る酵素が発見されると、生命現象は酵素が触媒する化学反応という視点で理解されるようになる。混沌とした生命の営みが物理的なプロセスとして記録されていく過程で登場したのが、情報を中心に据えた生命観だ。

 生命は膨大な情報をいかに読み取り、伝達し、処理しているか。解析技術の進展を背景に、細胞が相互に作用しながら組織や器官を作る方法や、器官同士が協力して生物を作り出す研究が加速する。DNA配列を変えず、オン・オフで情報を伝えるエピジェネティックな遺伝や細胞周期の制御機構が明らかになったのはその果実である。

 ナースがたどり着いた生命の定義は、「進化するもの」「境界をもつ物理的存在」「化学的、物理的、情報的な機械」の三点だ。物理学者が目指すような統一理論を期待したなら肩すかしを食うかもしれない。

 ただ一ついえるのは、一つとして他の生命に依存しない細胞はないということ。ダーウィンの進化論によれば、生命は一本の木のように進化してきたが、その木がどんな種から生まれたのかは依然謎なのだ。宇宙から飛んできたとか、神が蒔いたといえないのが科学者である。地球の生命の、たった一度の始まりを説明できる日まで、第三、第四の『生命とは何か』が刊行されるに違いない。

Paul Nurse/1949年、英国生まれ。遺伝学者、細胞生物学者。細胞周期研究での業績が評価され、2001年にノーベル生理学・医学賞を受賞。オックスフォード大学教授、王立がん研究所所長、米ロックフェラー大学学長、王立協会会長等を歴任。
 

さいしょうはづき/1963年、東京生まれ、神戸育ち。ノンフィクションライター。著書に『絶対音感』『セラピスト』など多数。

WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

ポール・ナース ,竹内 薫

ダイヤモンド社

2021年3月10日 発売