中村は厨房で働いたり、掃除をしたりした。そしてそのころに、ふとした縁で紹介を受けて、その後結婚することになる女性と出会った。中村はすでに高校時代までの人間関係を完全に絶っていて、付き合いが続いている友人は皆無だった。その状況において、お互いに思い合える1人の女性と出会えたことは中村の日々の生活に明るさをもたらした。彼女は中村の吃音を特に気にする様子もなく接してくれる。それが嬉しかった。しかしいいことばかりは続かなかった。
がんが発覚した母が、一言だけ『ごめんね』って。
「母の、居酒、屋は、3年ほどで、閉める、ことになって、再びバイト、を、転々とする、生活に、戻り、ました。そのうちに、母に、がん、が見つかって……。わかったときは、もう手遅れの、状態でした」
母親は闘病生活に入ることを余儀なくされた。状況が容易ではない中で、病院の近くに部屋を借りて1人で暮らしながら通院した。中村は、引越屋や工場の派遣工員といった職を転々としつつ、母の生活をできる限りサポートした。そうした日々の中、娘が生まれた。なんとか母親が生きている間に、孫の顔を見せたいという思いは叶った。そして33歳になったころ、いよいよ家族のためにより安定した仕事に就かなければと職業訓練校に通った末に見つけたのが、先の会社だったのだ。
母親は、職業訓練校に通っているころ、2011年に亡くなった。享年62。3年半ほどの闘病の末だった。父親との関係がなくなっていた中村にとって、母が唯一の頼れる親だった。だが、その母とも、最後まで、彼の吃音について話をすることはなかったという。母は元来さばさばとした性格で、子どもたちにもあまり多くを語らなかった。ただ、母が自分の残りの時間が少ないことがわかったころに、ひと言だけ言った言葉があるという。
「『ごめんね』って。それ、だけが、唯一の、吃音についての、会話、でした。吃音に、ついて、というより、吃、音を含めた、ぼくの、すべ、ての、状況について、そう、言ったんだと、思いますが、つ、辛かったです……。そんな、こと、言わ、ないで、ほしかった……」