その後、症状はどんどん悪化し、まねされることも増えていった。集団下校の友だちにも「おおおお、だってさ」と大きい声で言われたり、「あいうえおって言ってみろ」とからかわれたりもした。そうした影響もあったのか、5月になると、「おおおおおおおおおおおおお母さん」というようにそれまでにないほど言い出しの音を繰り返しながら話すのが日常になった。学校からは、毎日のように泣きながら帰宅し、「ただいま」と言う気力も失っている様子だった。友だちと公園で遊んでいて、からかわれて大泣きして帰ってきたこともある。
いったいどうすればいいのだろう。答えがどこにも見つからない中、信子は必死にできることを探して動いた。
毎週土曜には羽佐田のもとに訓練に行き、家でも春樹が訓練するのを手伝った。吃音関連の集まりがあればできる限り顔を出し、インターネット上でも吃音の関係者とつながって情報交換をするようにした。また、近所の友だちの家を一軒ずつ訪ね回ることもした。息子は吃音の症状があって悩んでいます。だから、まねしたり、からかったりしないようにお願いします。そう頭を下げていったのだ。
小さな文字で埋めつくされた連絡帳
「このころ、悩みのすべてが春樹の吃音のことでした。それ以外は一切手につかない日々でした」
彼女の切羽詰まった内面は、学校の「連絡帳」にも表れていた。
それは保護者が担任の教員へ連絡すべき事柄を書いたり、担任が学校での様子を保護者に伝えたりするために使う連絡用のノートである。信子は、少しでも深く春樹の状態を理解してもらうべく、毎晩、家での春樹の様子、自分が考えていること、学校へのお願いなどを、たとえば次のように文章にした。
《夕飯後、言語訓練のペーシングボードのあと、私は春樹に寝る前に「星を見に行こう」と誘って2人で公園に行って星を見ました。春樹は「いち、に、さん……」って星を数えてました。「あの星は赤いね」と私が言うと、「オレンジだよ」って言いました。「そうだね。オレンジだね」って言いながら近所を一回り、2人で手をつないで歩きました。春樹は安心していっぱいいっぱいどもりながらおしゃべりしました。何を話してくれたのか忘れてしまったけど、安心してどもっておしゃべりしてる春樹の声はやっぱり心地良いな。楽しいなって思いました。(中略)春樹が1人で抱えている辛さって、この子に何かプラスになることがあるのかな。誰か教えてくれないかなって寝顔を見ながら思いました。今夜はとても涙が出る夜でした》