2016年7月26日未明に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺傷事件。入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた植松聖(事件当時26)は、同施設に3年以上勤務した元職員だった。植松は犯行動機について「意思疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」などの自説を展開し、世間に衝撃を与えた。

 著書「こんな夜更けにバナナかよ」など、「障害者との共生」をテーマに取材をつづけるノンフィクションライターの渡辺一史氏は、横浜拘置所に拘留されていた植松と14回にわたって面会。渡辺氏が「週刊文春」2020年1月23日号に寄稿した記事を再公開する(日付、年齢、肩書き等は掲載時のまま)。

(全4回中の2回目。#1,3,4を読む)

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「会話にならない人は心失者」

 しかし、植松本人が納得することはなく、「渡辺さんのいうことは単なる揚げ足取り。そもそも問題を解決しようとしていない」としばしば声を荒げる。先ほどの障害福祉予算の話に関してもこう反論してくる。

「渡辺さんのいっていることは、京アニの放火事件の被害者(死者36人)が、ナチスの虐殺に比べると少ないから、大した事件じゃないといってるのと同じじゃないですか。どちらも大変な事件ですよ」

 私は「45人も殺傷したお前がいうな」と思わずツッコミを入れたくなりながらも、金額が少ないからいいなどといっているのではない。財政状況が厳しいから殺すなどという発想自体が本末転倒であって「誰もが幸せになれる財政のあり方を考えるのが、本当の知性ではないのか」というと、「そこがちょっとキレイゴト。死を考えようとしない時点で死から逃げているだけ」と応戦してくるなど議論はつねに平行線だ。

植松が拘置所で描いたイラスト

 最近では、「認知症の老人とかを放っておくから、車が暴走して子どもが死んだりするんですよ。ああいうのがホントに問題」などといい、「心失者」の中に認知症の高齢者もすっかり含まれるようになっている。

 そこで、改めて「心失者」の定義を尋ねると、「心がない人。善悪の判断ができない人、会話にならない人は心失者です」という。

「じゃあ、会話にならない私なんかも安楽死の対象ですか?」と尋ねると、「そこまではいわないけど、刑務所くらいには入ったほうがいいんじゃないですか」というのだった。

自分の主張が社会に受け入れられないことに気づき始めた?

 とはいえ、裁判が近づくにつれて、植松にも徐々に変化が見られるようになった。以前は「『心失者』は人ではないから殺人にはあたらない」として裁判で無罪を主張すると語っていたのに、最近では「裁判では聞かれたことに答えるだけです」「弁護士の先生におまかせします」などと前言をひるがえすようになった。

 もし死刑判決が出たら、という問いにも「まだ死にたくはない」「一審で判決が出ても確定ではない」と語ったかと思えば、次の面会時には「一審でどんな判決が出ても控訴しない」と一転するなど、その振れ幅の大きさが彼の内面の揺れを物語っていた。植松は自分の主張が社会に受け入れられないことに気づき始めたのではないか、私はそう思うようになっていた。