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家族にも言えなかった“任務”

 あるとき、面会に行った韓国外交官に、彼は上着を脱いで身体を見せたことがある。身体中が傷と手術の痕跡だらけで、あたかも道路網が表示された地図を見ているかのようであった。彼は、自分の身体には取り除けなかった破片がまだ残っていて、その破片が体中を動き回っていると話していたらしい。しかし、ビルマの医療スタッフの懸命な治療と親切な看護などにより負傷はほぼ完治し、服役中の健康状態は良好であったようである。

ある北朝鮮テロリストの生と死 証言・ラングーン事件

 カン・ミンチョルは故郷に家族がいた。4人家族で仲がとても良かった。特に彼は唯一の息子だったから、一家の柱のような存在であった。器量が良く、勉強も運動も良くできて、軍隊に行ってからも特別待遇を受ける特殊部隊の将校だったため、家族の関心と期待を独り占めにしていた。父親はカン・ソクチュン、母親はキム・オクソンで、嫁に行っていない妹が1人いた。ビルマに発つ当時は、父親はすでに他界し、母親だけ残っていた。

 軍に入隊した後は、彼が遂行する任務は特殊であったから、その分、家族団欒のときを持つ余裕があまりなかった。ビルマに派遣される直前に、彼は特別休暇をもらって実家に帰り、そこで久しぶりに家族と数日間を過ごすことができた。家族と会うのはそれが最後となった。

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 近所の友人や知り合いとは、会うこともできなかった。家族にも自分がどこにいるのか、何をしているのか、などの話は一切できなかった。彼の母親は見分けることも難しいほど変わった息子の容姿を見て、「お前はこんなに立派になったのだねぇ」と誇らしげだった。カン・ミンチョルは極めて重要な仕事をしていたが、どんな仕事であるかは言えなかった。彼は楽で楽しい仕事をしているという印象を与えようとした。しかし、母親は、彼が危険で困難な仕事をしていることを直感しており、ときどき心配そうに涙ぐみ、彼を見つめていた。別れを告げる瞬間には、母親は「お前がどこに行っても、どんな仕事をしていても、私がお前のために祈っていることを忘れないように」と言った。

テロリストとして育てられた若者

 北朝鮮のすべての若者たちと同じように、カン・ミンチョルも初等学校の4年と中等学校6年の課程を卒業し、軍に召集され、訓練所で軍隊生活を始めた。学生時代、彼はスポーツが好きで、勉強やその他の面でも優秀な学生であった。品格があって人柄も良く、性格も男らしくて村中の人気者であり、将来を嘱望されていた。彼は早くから、北朝鮮社会では高い評価を受ける立派な職業軍人として出世するという抱負を持っていた。

 軍への入隊後もすべての面で優秀な成績を上げ、将校に任命された。それも特殊任務を遂行するための要員を養成する特殊軍事学校へと進学する将校であった。特殊軍事学校の教科の中には、後日、韓国で活動する準備として韓国の生活方式に慣れるための課程もあった。そこでは越北(韓国から北朝鮮に渡ること)してきた人たちから、韓国の人たちの発音の仕方や品物の買い方、食堂での料理の注文の仕方などを習って覚えた。