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「可愛い熊を殺すとはけしからん、許せん」という非難も…それでも“マタギ”が熊を狩り、食べる“矛盾なき理由”

『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』より #1

2021/06/16
note

「なぜ、熊を撃つのだ」

 こう言われたらきちんと主張すべきである。ただしその時に伝統や文化のみを強調するのは間違っている。伝統や文化は時代の流れのなかで生まれて変化し、場合によっては消えていくものなのだ。お題目のように伝統や文化を繰り返しても説得力に欠けると私は思う。マタギという集団が、仲間や家族を認識するための重要な行為が狩猟であり、アイデンティティの一部なのである。そのことを抗議する人たちにきちんと説明するべきだ。

阿仁の山には無数の社が存在する。なかにはマタギ神社と銘打った珍しい社もある 写真=筆者提供
マタギにとっては山全体がご神体。どこでも手を合わせて祈りを捧げるのが習わしとなっている 写真=筆者提供

 人間は決してひとりでは生きていけない。必ず何らかの集団に属している。その集団が結びつくための大事な結束材料がマタギの場合は狩猟なのである。カロリーだけのために獲物を求めて山に入るのではない。金のためだけに獲物を求めて山に入るのではない。自分たちが何者かを確認するために獲物を求めて山に入るのである。

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自然を敬い恐れてきた古来の日本人

 古来、日本人は自然を敬い恐れてきた。決して自然を征服しようなどと考えず、その力をうまく利用し折り合いをつけようとしてきた。すべてのものに人知の及ばない力を感じ、神として敬った。山にも川にも海にも木にも石にも田にも畑にも便所にすら神を見ていたのだ。

 他方ヨーロッパ文化圏の多くでは神はキリストだけであり、まして自然のなかに神を感じることはない。彼らがよく高山などで神を見たなどという時の神もキリストのことであり決して日本人の言う神的なものではない。元々彼らにとって自然は脅威以外の何者でもなく、できれば徹底的に人間の都合のいいように変えてしまいたかった。森は悪魔の住み処であり神々がいる場所ではない。とてつもなく巨大な鯨も海の悪魔として長く描かれ続けたではないか。脂を取ったらあとは捨ててしまう彼らのやり方と、すべてを利用させてもらおうと考えて鯨の魂をきちんと供養してきた日本人。動物は神が人間のためにつくったものだから殺しても、そのために絶滅しようとも構わないと考えていた欧米文化。いったいどちらが真のエコロジストで、どちらがエゴイストであったのかは歴然としている。ただし、現在の日本人には失われてしまった感覚が随分あるのは残念だ。