「ほら、あそこさ、杉の木があるべ。そこの左上さ黒いものが見えるべ?」
杉の木はわかるがそこには黒いものは見えない。8倍の双眼鏡を覗いてもやっぱりわからない。せめて動いてくれれば確認できるかもしれないのだが。マタギたちによるとどうやら熊は斜面に座ってブナの実を食べているらしい。私がまったく確信をもてないうちにマタギたちはすぐに猟の打ち合わせに入った。
忍び猟は抜き足、差し足
熊の猟には大きく分けて2種類ある。猟期に行われるのが秋熊猟で、冬眠あけの熊を狙うのが春熊猟(出熊猟とも言う)だ。正確には春熊猟は狩猟期間外なので有害駆除の名目で行われる。いかにもマタギの集団猟といった感じなのは春熊猟で、前述しているが春が来るとマタギたちはいてもたってもいられなくなる。春熊猟は主に各猟友会単位で行われ阿仁では多いと20人以上のマタギが参加する。秋熊は個人の猟なので、今回のようにたったふたりのマタギで山に入ることもあるしひとりで熊に挑むマタギさえいるのだ。今回のような猟は俗に“忍び”と呼ばれている。まさに忍びの者の如く抜き足、差し足で熊を仕留める猟である。
ふたりのマタギは、入念な打ち合わせが済むと身支度を調えて斜面を下りていく。私もふたりのあとから暗い杉林を縫うようにして下りる。結構な急斜面で音を立てないようにして歩くのは神経を使う。下笹をがさつかせたり滑って転んだりしたらアウトだ。マタギは時々立ち止まり、木々の間から周りの景色を見て進むべきルートを決める。私は自分がどこにいるのか今来た道(道はないが)がどこなのかがまったくわからない。しかしマタギにははっきりと見えているのである。
斜面を下りると沢が流れていた。比立内川の支流のそのまた支流くらいだろうか。極めて美しい流れだ。本当にここの水は美しい。日本最後の清流といわれる川は各地にあるが宣伝されるように阿仁の川よりも美しい流れなのだろうか。同程度ではあってもここを超える川はないだろう。これ以上水は綺麗になりようがないと思う。そんな沢伝いにしばらく下ると、熊の棲み処が近づいてきた。このあたりにも雪が残っているので足を進めるのは苦労する。慎重に足を下ろしてもザクザクと音がするからだ。まだ表面が溶けているからましなほうで凍っているとバリバリと鳴り響き熊に気づかれてしまう。足跡を確認するには便利であるが“忍び”にはやっかいな雪である。
さらに熊の棲み処に近づいたところでマタギは顔を近づけて声を落としひそひそと話す。いよいよふた手に分かれて熊に挑むのだ。私はブッパ(編集部注:獲物を撃つ場所・人を指すマタギ言葉)にまわる土田さんと行動をともにする。