「熊だあああ!」と叫べば熊に気づかれてお終いである。距離を取っているので小声ではブッパに聞こえない。しかし、ブッパへ知らせなければ熊が逃げてしまう。私は必死に“くま、くま”と口だけ動かし、手で熊のいる方向を示してブッパに何とか知らせようとした。その必死さだけはブッパへ伝わったようだ。
「何だ? 何? わかんねえから、こっちさこ、こっちさこって」
そこで急ぎつつも静かに近づいた。
「熊!」
「えっ、どさ?」
ブッパは私が指さすほうに向いて熊の姿を確認するやいなや発砲。見事な早業だ。銃声が山々にこだますると熊の姿はふっと消えた。落ちたのか? それとも滝の上流部に逃げたのかわからない。体を乗り出して滝の下に目をやると、小さな黒い点が見える。しかし、かなり小さいので岩なのか熊なのかすぐには判別が不可能である。よく目を凝らして見ると黒い点の質感が周りと違うようだ。黒いのを覆っているのは毛皮である。滝に落ちているのは間違いなく熊だ!
突然マタギが大声を上げる。
「ショウブ、ショウブー」
熊を仕留めた者が叫ぶマタギ特有のかけ声だ。急斜面を熊目指してマタギが走る。私もうれしくてそのあとを追いながら同じように叫んでいた。しかし、下手するとこっちまで滝壺へ真っ逆さまなのでマタギほどのスピードは出せない。滝の手前から沢に下りてざぶざぶと登っていくと、はっきり熊の姿が確認できた。ただ、大きさは近づいてもよくわからない。小さいような気もする。丸まった体は半分滝壺に沈んでいた。
「ああ、獲れたな」
土田さんとふたりで熊を見ていると勢子をした弘二さんも急斜面を下りてきた。
「やったな。大きいべしゃ、大物だ」
マタギたちが滝壺から熊を引っ張り出すと丸まっていた体が伸びた。
「おおっ、これは大きいな。はあ、滅多に獲れねえぞ」
山の神は大物を恵んでくれたのだ。
熊の魂を鎮め、山の神に感謝する
猟場に向かう急斜面やブッパの後ろで待つ間、大物を持って山を歩くのは大変だろうなあと考えていたが実感はわかなかった。しかし、今は目の前に大きな熊が現実にひっくり返っている。これを運ばねばならない。軽く100キロは超えているであろうその巨体をまず滝壺から引き上げる。さらに沢を転がしたり落としたりしながら熊を動かす。これが大変で休み休みで小一時間の作業である。何といっても熊が持ちにくいのだ。持ち手となる部分がほとんどなく、かろうじて持てるのは前後の足だけだ、そこも丸っこくて持ちにくい。小物であればおぶるようにして担ぎ上げることも可能だが100キロを超える大きさではそれも難しい。