「働く者こそ食う権利がある」「私たちは天皇のために父や夫を失った」
食糧メーデーの記事は朝日、毎日も1面トップだが、毎日の記事は「學(学)童も飛入りで 飯米の獲得を叫ぶ」が見出しで雑観ふうだ。
この朝、広場中央には、二重橋を背に3台のトラックを並べた無造作な演壇が設けられ、その上に5脚の裸机とマイクを置いて登壇者が突っ立つというにわかづくり。頭上に横に掲げられた「飯米獲得人民大会」の書が映えている。午前8時ごろから続々と繰り込んでくる参加団体の民衆の腕には「反動政府反対、民主政府を作ろう」と2行書きの白布が縫い付けられ、お互いにそれを指さしながらのささやきも気負って聞こえ、赤ん坊を背負ったお母さんや「全教」の大旗を打ち振る先生とともに学童たちも交じり、そうかと思えば、真っ白い制服に赤い小旗を手にした看護婦や働く女性の数も多く、組織労働者の下に、向かって左から城西、城南、城東、城北の4地区別に勢ぞろい。その先頭に交通同盟の人々が並ぶ。9時、10時―。広場はあらかた人波に埋まり、予定の10万ははるかに突破。開会時間を過ぎるころは25万を上回ったというのが世話人側の計算。
会は司会者の交通同盟・島上善五郎氏(のち衆院議員)が「働く者こそ食う権利がある。飽食の徒を追放せよ」とあいさつ。各団体の代表が、食糧事情の逼迫に対する大衆行動の必要性を訴えた。続いて、黒のモンペに赤ん坊を背負った東京・世田谷区民代表の水野アヤメという女性がマイクの前に立った。以下は同じ日付の朝日の記事。
「おかゆをすすり、野草の団子を食べてもお乳は出ない。これ以上の苦しみを誰に聞かせたらいいのか」と語りだすと、背中の赤ちゃんが火のついたように泣き出した。アヤメさんは一層声を張り上げて語を継ぐ。
「私たちは天皇のために父や夫を失った。私たちの親である天皇に私たちの窮状を聞いていただくために宮城に行った。私たちは裏切られた。連合町会長は十二分に腹を満たしているから、私たちが悪いと宮城におわびに行った」
このあたり、満場水を打ったように静まり返る。次いで四谷第六小5年生、橋本実君(12)。
「僕たちは疎開したので、遅れた勉強を取り戻したいが、コメがないので学校に弁当を持って行けない。僕たちに給食してください」
「俺たちは飢えている。彼はどうだ?」
その後も労働組合や政党の代表の演説が続いた。当時、アメリカ「シカゴ・サン」紙の特派員だったマーク・ゲイン「ニッポン日記」は書いている。
徳田が最後にしゃべる番だった。彼はテーブルの上を歩き回り、皇居を指して怒鳴った。「俺たちは飢えている。彼はどうだ?」。彼は吉田を非難し、国会内の戦犯者を攻撃した。しかし、一番鋭い刺(とげ)は天皇に向けるためにとっておかれた。「先週、われわれは天皇に会おうと思って皇居に行った。ところが追っ払われた。天皇は『あ、そう、あ、そう』としか言えないからなのかもしれない」。彼が天皇の口まねをすると群衆は歓呼した。