コロナ禍で貧富の差が拡大し、生活に困窮する世帯が増えている。

 しかし、いまから七十数年前のこの国は、ほとんどの国民がその日の食事にも不自由するような生活を送っていた。特に敗戦翌年の1946(昭和21)年は、生産力の低下に加えてコメの凶作に台風被害が重なり、配給制度も遅配、欠配が日常茶飯事。食糧難は国民の死活問題になっていた。この年に始まったラジオの「放送討論会」でも「貴方(あなた)はどうして食べていますか」がテーマに取り上げられるほど。全国各地で食糧を求めるデモや集会が繰り広げられた。

 一方、戦争責任を問う東京裁判と国民主権・象徴天皇制を中核とする新憲法制定の動きも進行中で、社会党、共産党などは民主人民政府の樹立を目指して、保守政権を追及。「このまま行けば革命も」と思わせる雰囲気が社会を覆っていた。

ADVERTISEMENT

 その流れの1つのピークといえるのが5月19日の「食糧メーデー」。民衆の矛先は一方で天皇に向かい、皇居前に大群衆が集まって政府に食糧を要求する一大イベントに。そこに登場した1本のプラカードが天皇に対する不敬罪に当たるとして、書いた共産党員が逮捕、起訴される事件となった。

 裁判はうやむやの結果に終わるが、このあたりから、東西冷戦の本格化で、アメリカの日本占領統治の基本的な態度が変化していく。いわば戦後の流れが転換した瞬間であり、天皇制の曲がり角だったのかもしれない。事件はどう受け止められ、その後の社会にどんな影響を及ぼしたのか――。

皇居前広場を埋めた食糧メーデー参加者(「画報近代百年史」より)

◆ ◆ ◆

「叫び」の爆発

 寸前に迫った飢餓を前に、全国に爆発した飯米闘争の波はついに日本最初の大規模な政治的大示威運動に発展。19日午前10時20分から、宮城前広場に飯米獲得人民大会(食糧メーデー)が開かれた。労協、総同盟、産別会議参加の各組合、市民団体関係者など組織を通じて動員された参加者は25万を超え、食糧の民主管理、吉田反動内閣反対、民主政府樹立、勤労大衆団体を主体とする強力な民主戦線の結成が決議され、下からのわき上がる民主戦線は革命的な巨歩を踏み出した。

 1946年5月20日付読売朝刊(当時、新聞は全紙朝刊のみ、原則2ページ建て)1面トップの記事はこういう書き出しだった。見出しは「餓ゑ(飢え)た人民の叫び爆發(発) 廿(二十)五萬(万)人の大示威 飯米獲得大會(会)開く」。

 当時の読売は、正力松太郎社長がA級戦犯として収監され、この日の大会でも演説した鈴木東民・編集局長の下で民主化路線を進めていた。吉田は吉田茂のこと。

 1946年4月10日、婦人参政権が認められた戦後初の総選挙が行われ、自由党が第1党に。幣原喜重郎内閣は4月22日に総辞職。自由党総裁の鳩山一郎(のち首相)が首班指名される直前、GHQから公職追放処分を受ける。その後もゴタゴタが続き、内閣不在のまま1カ月。幣原内閣の外相だった吉田が組閣したのは、食糧メーデー3日後の5月22日だった。