「配給ですかね、これ」「もちろんヤミですよ」
「サンデー毎日」1975年6月8日号に掲載された大島幸夫「戦後民衆史の現場をゆく」「暴露された“天皇メニュー”!?」によれば、誰かが「天皇陛下はどんなものを食べているか、見せてください」と言い出し、宮内省側の案内で地下1階にある、職員食堂に当たる「菊栄寮」に入った。
宮内省ののちの発表では、120人分の麦飯とマグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほか、イモ、大根などがあった。一方、デモ隊側によると、冷蔵庫には目の下1尺(約30センチ)ぐらいのヒラメ30~40匹、大ブリ5~6匹、牛肉5~6貫(約18.8~22.5キロ)、平貝一山、そのほかたくさんあり、ご飯も大半が銀シャリだったという。
「仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引き揚げ者たちには大変なゴチソウに見えた」と同記事は書いた。その後、女性や子どもたちがご飯に群がって手づかみで食べ始めるなど、「すさまじい光景となった」。
黒板には、翌日の皇族ら13人の夕食会の献立表が書いてあった。「平貝とキュウリとノリの酢の物、おでん、マグロの刺し身、焼き物、から揚げ、タケノコとフキの煮物」……。
「2人のオカミさんが顔を見合わせた。『配給ですかね、これ』『もちろんヤミですよ』『だって、天皇陛下がヤミをなさるはずありませんでしょ』」。(同記事)。
「入江相政日記 第2巻」はこの日の項に「(午後)5時すぎに戦災者同盟の団体老若男女60名が宮城内に入り、互助会食堂などを見て回っている由。もちろん官房当番と合議のうえ入れたものであろうが、困ったことである。今後何が始まるか分からない」と記した。明治維新以降、天皇が最も尊厳を失った瞬間だったかもしれない。後で町内会長が「町民の総意でなかった」と頭を下げに行った(問題になり辞職)のも、それまでの常識からいえば当然だった。
どん底の食糧事情「1000万人が餓死するだろう」
実際、当時の食糧事情はいまからはとても考えられない、どん底の状態だった。1945年11月、政府は「コメは1910年以来の凶作で、約2000万石(約300万トン)が不足する」と発表。「1000万人が餓死するだろう」といううわさが公然と広がった。
そのころ、上野駅では「最高1日6人の餓死者があった」とも報じられた。「労働年鑑昭和22年版」には、食糧メーデーの翌月、1946年6月に警視庁生活課が東京都民各層136世帯の実態を調査した結果が載っている。
それによれば、会社重役、事業主、医師ら20世帯は3食とも米食をしているが、他の会社員、官公吏、労働者、無職など、大多数の116世帯の生活は次のようだった。
買い出しにも行けず、配給だけでやっている 5
1食もしくは2食を抜いている 10
3食は食べているが、1日中、コメの1粒も入らぬ代用食ばかり 14
コメは半分以下の雑炊 10
残り79(77の誤りか)世帯も盛り切りのコメを1回しか食べられないのが大部分
同書によれば、三河島の無職家庭は配給だけで生活しており、配給の調味料などは小麦粉などと交換。粉と野草をすいとんにして塩味を付けた汁をすすっている。
普通家庭の雑炊の大部分は1日1人当たり平均5勺(約90ミリリットル、重さ約75グラム)に達していないらしく、代用食は野菜汁が多かった。結局、都民の大部分は盛り切りの飯、汁の多い雑炊または代用食が主食になっているとみられる。
食糧メーデーから5日後の5月24日には、「同胞愛で難局突破」(25日付読売見出し)と食糧難克服を呼び掛ける天皇のラジオ放送が行われた。
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