すべての“金づる”を失って
じつは松永は、かつて“金づる”にしていた末松祥子さん(仮名)が94年3月末に大分県の別府湾で死亡して以降、緒方に実家の母親から送金をさせるよう命じていた。そのため、由紀夫さんや裕子さんが“金づる”となっていた時期は、彼らから得ていたカネもあることで、生活資金は十分にあった。だが、“金づる”をすべて失い、緒方の実家からの送金も途絶えがちになったことで、それが一気に停滞してしまう。
福岡地裁小倉支部で開かれた公判での、検察側の論告書(以下、論告書)には次のようにある。
〈関係証拠によれば、和美(仮名=緒方の母)から緒方への送金は、末松(祥子)が自殺した直後である平成6年(94年)5月に開始され、最終送金となる同9年(97年)3月27日までの約2年10か月間に、前後63回にわたり、その合計金額は1500万円以上に上る。
この送金は、最終送金に近い平成9年3月ころに着目すると、同月21日に5万円、同月25日に3万2000円、そして最終送金である同月27日に5万円というように、小刻みの送金を繰り返す形となっており、当時、緒方が和美にしばしば金の無心をしていたことや、それだけ被告人両名が金銭的に困窮していたことを示すものとなっている〉
これら緒方の母親からの送金と、その停止に至る流れについては、同公判での判決文(以下、判決文)がさらに詳しい。
〈被告人両名(松永と緒方)は、平成6年3月31日に祥子が死亡した後、由紀夫と裕子に金を工面させる一方で、和美に対しても、緒方が電話で、「子供が病気で入院する。」、「ボヤを起こした。」、「人の金を使い込んだ。」、「新しいアパートを借りるため資金が要る。」、「自分たちは犯罪を犯し指名手配を受けて警察に追われているので、時効まで逃げ切れるように協力して欲しい。」などと申し向け、種々理由を付けてたびたび金を無心しては送金させた。被告人両名は、平成6年5月6日から平成9年3月27日までの間、和美から、63回にわたり、合計1557万7000円の送金を受けた。(略)
また、和美も、「もうお金がないから送金できない。」などと言って、送金を断ってきて、和美からの送金は、平成9年3月27日を最後になくなった〉
松永は裕子さんが逃走してからは、緒方に対して、「逃亡生活を続けてこのかた、俺ばかりがカネの工面をしてきた。今度はお前がカネを作れ。150万円を作って渡せ。お前は逃走生活になにも貢献していない」と不満を口にし、事あるごとに彼女を責め立てた。