ときには男子の美徳として、ときには忌避される対象として。時代の移り変わりとともに、イメージが変容してきた「童貞」という言葉。しかし、いつの時代も“めんどうな基準を設定し、セックスにかんして劣位の者を作り出してコキ下ろす”という構造が見られる。

 ここでは、2015年に文庫版が刊行された『日本の童貞』(河出書房新社)より、著者の澁谷知美氏のあとがきを引用。童貞にまつわる言説、男性のセクシュアリティの変化についての筆者の考えを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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童貞を否定しているのは「当事者」である男性である

日本の童貞』は筆者にとって一冊目の本で、思い入れが深い。「私の処女作は童貞です」というセリフを言いたいがために、博士論文よりもこの本の執筆を優先し、当時、所属していた大学のパソコン部屋で作業にいそしんでいた。さいわい、読者からは好意的な反応をいただき、いろいろな媒体で取り上げてもらった。 

 一方で、「なぜ女性が男性の性について研究するのか。そうした研究は男性の手にゆだねるべきではないか」という批判を受けることもあった。この人たちは、「当事者の視点こそが大事」というフレーズを錦の御旗として掲げる。が、性暴力やセクシュアル・ハラスメントなどの形で、男性の性のありようによって迷惑をこうむっている女性が、男性の性について研究してはいけない理由を説明しない。 

「当事者」と「非当事者」を線引きする基準は自分たちが決める、といわんばかりの態度も矛盾している。「当事者の視点こそが大事」という一方で、「お前は男性の性にかかわることがらの“当事者”ではない」と、第三者である自分たちが判断できるとする理由は何か。第三者が介入して、他人の研究を止めさせようとすることについて、どう釈明するのか。 

 やみくもな「当事者主義」こそが、男性の性についての研究を遅らせ、社会を変えることを阻む。この人たちは、民族的マイノリティがマジョリティの意識について研究することや、性暴力被害者が性暴力加害者について研究することを禁じはしないだろう。だが、ひとたび女性が男性の性について研究するとなると、「やめろ」という。「リベラル」な人ほどその傾向があるのも特徴で、そこにはねじれた、または単純にすぎる「平等意識」があるのだとふんでいる。 

 ただし、急いで付け加えるが、筆者は、童貞が女性に迷惑をかけていると考えているわけではない。迷惑をかける童貞がいるとしても、それは「童貞だから」ではなく、「その人だから」であろう。迷惑をかけない童貞もいるからだ。むしろ、童貞がおもしろおかしくいじり倒される風潮を懸念している。そして、性経験の有無を問うことに意味がなくなり、誰もが童貞について無関心になる社会をめざしている。