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死体のタブー化はテレビ局の自主規制に過ぎない

――他のメディアは問題になるのを恐れて取材しなかったり、映さなかったりすることを、東海テレビのドキュメンタリーは映し出していきます。本にもありますけれども、死体がそうですね。

阿武野 死体をテレビで映し出すのはタブーのようになっているけど、それは勝手にテレビ局が自主規制しているだけです。

 死を受け止めるということを、作品の中の日常に入れ込んでおいたほうがいい場合があります。あるいは制作者が「これはどうしてもみんなに見てほしいご遺体だ」と思ったときは、それを作品のなかで描いていいと思う。

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 東海テレビのドキュメンタリーでいえば、「ふたりの死刑囚」(2015年テレビ放映)で冤罪を訴え続けながら獄中死した奥西勝さん、「人生フルーツ」(2016年テレビ放映)のときに建築家の津端修一さん、それから空襲によって負傷した市民を救済する運動をしてきた杉山千佐子さんのご遺体も放送で映し出しました。それに対して不快だという抗議はひとつも来ませんでしたし、問題になったこともありません。

 

テレビのタブーはなぜ生まれるのか

――こうしたタブーはどんなふうに生まれていくんでしょうか?

阿武野 世論に過敏なテレビ局という前提がありますが、局内の分業化みたいなものの影響がありますよね。報道局のニュースデスク、編成局、コンプライアンス部門など、それぞれの立場で番組をチェックし始めると、みんなそれぞれ考え方が異なり、経験も違うから、そのうちの誰か声の大きな一人が「やめておいたほうがいいんじゃない?」と言った瞬間に、なんとなく空気として「問題になりそうなら、やめておいたほうがいい」という方向に流れていってしまう。それを続けているうちに、タブーは形成されていきます。

 もちろん、そうした複数の人の社会観や時代感覚などが「迷いの回路」となり、一面的な見方に留まらない作品がチームワークによって作られていく点は、テレビの強みでもあります。ただ、それがえてして、こういう「副産物」も生み出してしまう。

 こうした空気を突破できるのは、他でもなくその作品の制作者です。「これは絶対こういうふうに表現したいんです」という熱意や論理で、これはやむにやまれない表現なんだと言い尽くせるかどうか。つまりご遺体を映すことでいえば、放送法違反でもなければ、放送基準に死を描いてはならないとも書いてない。制作者が「そんなことは、どこに書いてあるんですか」と強く主張できるかどうかなんです。

 そんなふうにタブーとされているものをひっくり返していくことを含め、表現の自由度を高めていくためにも、1本1本のドキュメンタリーが勝負なんだと思っています。