評論家・神崎清が雑誌「教育技術」1952年9月号臨時増刊「脱皮する日本教育」に載せた「現地調査記録 静岡県の村八分をめぐって」は「静岡県の小さな村の片隅の事件を全国的な話題に投げ込んで、大きなセンセーションを巻き起こした」と書いている。同論文によれば、北は北海道から南は鹿児島まで、あらゆる階層の人々から実に1200通の感想文が石川家に舞い込んできたという。
静岡県富士郡上野村(当時)は国鉄(現JR)身延線富士宮駅からバスで約40分。富士山南西山麓にあり、「角川日本地名大辞典」によれば、1950年当時、面積は13.6平方キロメートルで戸数は964戸、人口5334人だった。主な産物はコメと繭(まゆ)。1958年に富士宮市に合併された。
「アサヒグラフ」の1952年7月23日号には、この問題が広がるきっかけとなった石川皐月さんの感想文が載っている。高校の山香教諭から求められて書いた文章だ。それには事件の端緒がこう書かれている。
1952年5月6日、静岡県においては参議院補欠選挙が行われた。夕方帰宅し、母に様子を聞いてみた。ところがどうだろう。午前10時ごろ、隣組(田舎にはまだこの制度がある)の組長が棄権者の票を集めに戸別訪問したというのである。
折あしくこの日は、近くの浅間神社の祭りのため、自覚のない多くの人たちは、投票よりも祭りの花火にひかれていたのは事実だったようだから、棄権者が多数いるだろうことは想像に難くなかったし、事実だった。
母は断って投票に出かけたという。そこに見たのは何だろう。5回投票してきたと笑い興じている婦人群と、顔知りの人に替え玉を依頼する組長級の馬鹿者だったという。帰途、先ほど家に訪ねてきた組長Kと出会い、Kが既に30枚ほどの票を村役場のMに手渡してきたという事実をK自身から聞いて知ったという。
あまりにも正々堂々たるものなので、いかなる理由によるかと聞いたところ、「棄権防止ということですよ。だが、村ではI氏を担いでいるらしい」と漏らしたという。同じ方へ帰る人々2、3に会い、Kの部落のみかSのところも、Iのところも同様のことがあったことを耳にしたという。ひどいことには、Iの部落では、組長が回ったどころか、「棄権者は入場券を組長宅までお届けください」との意味の紙面が回覧されたということだ。
選挙の背後にあった中央政界の事情
このときの参院補選の背後には、当時の吉田茂・自由党内閣が絡んだ保守系内部の複雑な事情があった。
前年の知事選で現職の小林武治(のち厚相、郵政相、法相)が自由党の公認争いに敗れて退陣。参院補選も小林と大昭和製紙専務の斎藤美英(了英、のち大昭和製紙社長)が公認を争ったが、前年公職追放解除になった石黒が突如出馬を表明した。
吉田内閣は参院で野党の攻勢に苦しんでいた。「静岡県政の百年」によれば、吉田首相は斎藤寿夫知事らを呼びつけ、「石黒が全国農業界に持つ勢力は、彼の心一つで20人の農業代議士を左右できる。緊迫した政局を押し切るには、石黒を参院に据えるしかない」と説得。「他党候補を応援するとは」という地元の根強い反対を押し切った。
斎藤美英は出馬を辞退。石黒が自由党公認を得た小林に競り勝った。「石黒を落としたら交付金や補助金を減らす」と斎藤知事が脅されたといううわさも。
「静岡県の村八分をめぐって」によれば、戦没学生の遺稿集「きけわだつみのこえ」で知られる日本戦没学生記念会(わだつみ会)の現地調査報告では、上野村でも4月下旬、町長が村会議員らに「村の平衡交付金(のちの地方交付税)は石黒氏の票数と比例すると言われた」と言明したという。ねじれとしこりを残した選挙だった。