「確かにこれは田舎の悲劇だ」
そんな中で、皐月さんは、問題の捉え方と自分がとるべき手段を書き進めている。
確かにこれは田舎の悲劇だ。無自覚な人々は、腹黒い陰謀さえ見抜く力を有してはいなかったのだ。これは現代の重大な課題の1つに違いない。時代の流れに、社会の進歩に取り残された農村の根底には、深刻な世紀の断層が露出している。このままにしておいたら、どうなるのだろう。目覚めない民衆がいわゆる顔役に利用される危険は逃れられないことに違いない。
一番悲しいのは、村人の多くが事の重大さを、偉大なる不正であることを認識しないことだ。だから第一に、棄権防止のために棄権者の票を集めてよいなどという規則はどこにもないのだということを村人に徹底しなくてはならぬと私は考えた。そのためには、村人を集めて話し合うなどという芸当は、高校生の私にはできようはずがない。
次の日(5月7日)、村の中学に通っている妹から、ホームルームの時間に選挙の反省会が行われたということを聞いた。というのは、中学生は棄権防止に駆り出された。無論、組長の棄権防止? とは意味が異なるのだが、そのとき、数名の生徒から「組長が集めに来たり、何枚も票を持っている人を見たが、そんな選挙はいけないと思う」という意見が出たということを聞いた。
だとすると、この事実は村中に広まっている。組長2、3人の私事ではない。何か1つの中心地がある。何ということだろう。自分の住んでいる愛する村が、愛する国の民主化のために大きな害になっていようとは!
「参議院議員選挙のとき、今回と全く同じような不正が公然と行われたのです」
皐月さんは、家で購読している朝日新聞の静岡支局に真相調査を願うはがきを出すことにした。「警察には割り切れない反感があったし、村の民主化のために結成されているグループも折あしく知らなかったし、中立の立場から正しい調査が望ましいと考えたからだ」(感想文)。そこには、2年前の苦い経験があった。
「昭和25年6月4日の参議院議員選挙のとき、今回と全く同じような不正が公然と行われたのです」と、事件翌年の1953年に出版された手記「村八分の記 少女と真実」で皐月さんは書いている。
投票所で数人が「○○さんに投票してもらいたい」と顔見知りに頼んでおり、同じ人間が何度も投票に来るのを担当者は傍観していた。不正行為をやめさせる者がいなかったことで、彼女は「悔しかった、恥ずかしかった」と、在学していた上野中学の文芸部同人誌に書いた。
それは同中の学校新聞に転載されたが、「学校では直ちに受け持ちの先生を通じて全生徒に新聞を回収させ、焼き捨てたのです」(同書)。
「静岡県の村八分をめぐって」は「(学校新聞を読んで)狼狽した村長は、中学の校長を呼んで『あんな新聞を出されては困る』としかりつけ、回収を命じた。校長はいったん拒否したが、職員会議を開いたところ、『村立の中学としては村長の意向に逆らうわけにはいかないだろう』という意見が勝ち、新聞を回収したという。
同記事によれば、皐月さんは翌5月7日の早朝、学校近くの富士宮郵便局ではがきを投函した。上野村には富士宮高校の分校があったが、富士宮市の本校に自転車で通学していた。それを読んだ同村を管轄する朝日新聞吉原通信部の記者は8日、その名前の人物が実在するか電話で村役場に確かめたうえ、9日に車で現地入りし、石川家に乗りつけた。
しかし、取材に関係者は口をそろえて疑惑を否定。「幾分不安を覚えました。村長は無論、ほかの人々も事実を否定し、結局あなただけが事実を認めているのですという記者の話だったからです」と皐月さんは「村八分の記」に書いている。
彼女は中学校の教師に聞いてみてほしいと答えた。そして5月10日付朝日朝刊静岡版に「棄権者の入場券集めて投票 どう使われた? 上野村で」という見出しの、この問題での第一報が載った。記事には住民数人の匿名の談話があるが、そのうち、「私のところにも来ましたが、入場券など人に渡すものではなく、自分で行きますと言って出かけました」と語った「K・Iさん(48)」というのは皐月さんの母親だった。
「帰ってきたら礼に行く」
「村八分の記」によれば、それから十数日たったある日、彼女は家の近くで隣の組の組長の妻に呼び止められた。
「あんただってねえ、選挙違反を投書なんかしたのは。きょう十何人もの人が警察に呼ばれたんだけど、まだみんな帰ってきていないから、帰ってきたらみんなしてお礼に行くそうだから」「自分の村に恥をかかせてさあ……」などと言われた。