18年2月、韓国を訪れた金与正氏はソウルと五輪会場の平昌との往復の際、韓国高速鉄道(KTX)江陵線を利用した。韓国大統領府によれば、金正恩氏は同年4月に板門店で開かれた南北首脳会談の際、文在寅大統領に「みな、韓国の高速列車は素晴らしいと言っていた。文大統領が我が国を訪れたら、交通の不備で不便をかけそうだ」と語った。韓国政府関係者は「率直に、韓国の鉄道が北朝鮮よりも優れていると言えるのは、金与正氏だけだろう」と語る。
正恩氏は頼れる側近が少ないため、とても党、軍、政府の3つをすべて仕切るだけの余裕がなくなっている。与正氏は現在、党宣伝扇動部副部長だが、党務全般の前さばきを行っているようだ。韓国の情報機関、国家情報院も20年8月に開かれた韓国国会情報委員会で、「正恩氏は最近、委任統治を行っており、委任を最も多く受けているのが与正氏」と説明した。
そして、金正恩氏が与正氏を頼る3番目の理由は、正恩氏の健康状態だ。後に詳述するが、正恩氏の家系は代々、心疾患に悩まされてきた。正恩氏自身は高血圧や糖尿病、痛風などにも苦しんでいるとされる。20年4月には長期間、公の舞台に登場せずに、健康異常説が取りざたされた。
ただ、どこの世界でも同じだが、政治家、特に最高指導者の健康状態はトップシークレットになっている。金正恩氏の場合も、外遊の際には使用した宿舎は徹底して清掃され、排泄物まで持ち帰るという。その健康状態を知る者は、主治医と親族ら、ごく少数に限られる。父、金正日総書記が08年8月に脳卒中で倒れた際も、看病が許されたのは実妹の金敬姫氏とその夫の張成沢国防副委員長、内縁の妻とされた金玉氏、そして正恩氏ら3兄妹だけだったとされる。金総書記が同年秋に公務に復帰してからは、金敬姫氏が常に同行するようにもなった。韓国政府は当時、「金総書記が再び倒れた場合に備えた行動」と分析していた。金総書記の健康状態を正確に知る人間がそばにいてこそ、医療や行政、軍事などで緊急の対応が取れるからだ。
金与正氏も正恩氏の公開活動に同席する姿がたびたび目撃されている。北朝鮮メディアが伝える最高指導者の動静は、警備の問題もあってほとんどが編集済みのものだ。金与正氏が映っていない場面でも、つねに同席している可能性が高い。
かけがえのない駒
金与正氏の露出が増えているため、一部には金与正氏が正恩氏の後継者として指名されたのではないかという声も出ている。与正氏は確かに有力な後継候補ではあるが、後継指名は受けていないというのが実態だろう。部下の殺戮もいとわない金正恩氏が、後継指名をすれば権力が自分から離れるという冷酷な事実を知らないわけがないからだ。金正日総書記の場合、02年ごろから朝鮮労働党内部で起きた、正恩氏の母、高英姫氏を称賛する「朝鮮人民軍の母運動」を止めさせたことがある。周囲が正恩氏やその兄、正哲氏を後継者として公然視するようになれば、金総書記の権力が急速に弱まると考えたからだ。