ジャーナリスト・評論家の立花隆さんが、4月30日、80歳で亡くなりました。立花さんは1996年から東京大学駒場キャンパスでゼミを開講し、多くの教え子を各界に送り出してきました。その後、「立花ゼミ」は形を変えながら続けられましたが、2010年3月には立花さんが東京大学を退官。それから3ヶ月後の6月26日、立花さんは“最後のゼミ生”に向けて、実に6時間にも及ぶ最終講義を行っていました。
当時70歳だった立花さんが、次の世代に向けて残したメッセージとは――。講義の内容を収めた『二十歳の君へ』(文藝春秋)より、その一部を抜粋して紹介します。(全2回の2回目/前編から続く)
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リアリティの皮相
人間、若いときほど死が怖いものです。
死を恐れるのは、人間の本能です。戦争の時代のような特殊な時代を除けば、死にいちばん近いのは老人です。若い人ほど死からは距離があります。僕のように70歳にもなると、同世代の人間が次々に死んでいきます。中学校の同窓会に行けば、同級生の新しい死を毎度のように聞かされます。隣近所でも顔を見知っていたお年寄りが次々に死んでいくし、新聞を読んでいても直接間接に知っていた人の訃報が次々に報じられていきます。知っている人たちが、こんなに次々に死んでいったら、いずれ知っている人で生きている人はひとりもいなくなる日がくるんだな、と当たり前のことが分かってきます。老人にとっては、死は日常性の中にあることです。しかし若い人にとっては、死は非日常そのものでしょう。
人の死は若い人に、いつでもある種の衝撃を与えるものです。特にそれが予期せぬ死であった場合、与えられる衝撃の大きさが違います。僕も、今でこそ何が起きても驚かないし、動揺もしないだけの体験を積んでいますが、若いときはやはり思いがけぬ人の死に出会うごとに、激しく動揺させられたものです。身近なところでは、学校の同級生の急死、自殺、事故死などがそれにあたります。
ある年齢を過ぎてからは、社会的事件となった一連の不自然死に心をゆさぶられました。僕らの世代にとってそういった衝撃的な死として誰の記憶にもあるのは、安保闘争における樺(かんば)美智子さんの死でした。僕の数年先輩ですから直接の知人ではありませんが、彼女を直接知っている人は、僕の周辺にたくさんいました。
時代はちょっと違いますが、三島由紀夫の死もまた衝撃的でした。三島さんには文春の編集者時代に何度か直接会ったことがあったからです。三島さんが東大全共闘の学生と対決すると言って東大に乗りこんでいったときも、取材がてら近くからウォッチしていましたしね。それより、三島さんと共に死んだ森田必勝(まさかつ)のことはもっとよく知っていました。ある雑誌の仕事で、楯の会とは何たる組織なのかを伝えようということで、その隊員たちを取材したことがあったからです。森田必勝と、もうひとり現場にいて生き残った古賀浩靖(ひろやす)の両方の話を、事件の数週間くらい前だったか、1時間くらいにわたって聞いたことがあったのです。森田必勝は、よくそう想像されるようなイデオロギー過多のファナティックな右翼青年というよりも、赤い頬っぺがかわいいナイーヴな地方出身の若者という感じでした。