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「野村引く野球=ゼロ」の“ゼロ”を書けるのは私だけ

そのとき、野村の言葉が、頭に降りてきた。

「どうしてこの時代に生まれてきたのか、考えろ」

 初夏、行きつけの美容室で、野村の死とコロナ禍に落ち込んでいることを明かすと、美容師さんは口を開いた。

「私、野球に詳しくはないんですけど、野村監督の名前も顔も知っています。なんだか、いい言葉をおっしゃる方だな、という印象を持っています。野村さんがどんな野球をしたかではなく、どんな人だったのか、その人間性を知りたい。グラウンドの外の野村さんを、書いてほしいです」

 幅広い世代、立場の人たちに届く“言葉の力”が、野村にはある。24年の付き合いで、野球そのものに関する話は5%もしていない。「野村引く野球=ゼロ」とは本人の言葉だが、私はその“ゼロ”の部分を知っている。「これを書けるのは私しかいない」とい気持ちを奮い立たせた。

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 配球術、打者心理など野球論は一切なし。彼が抱えたやるせなさ、切なさ、寂しさ、そして、どんな逆境からも立ち上がろうとする強さを書こう―。

今の時代こそ、野村が必要だ

 コロナ禍を知らないまま、天国へ旅立った。もし彼が生きていたら、この苦しい現実世界を見てなんと言ったであろうか。“ノムさんの言葉”に生きるヒントがあるのではないか。

「やりたいことがあるなら進め。やりたいことが見つからなくても腐るな、考えろ。学べ。本を読んで、人の話を聴いて、心の声を待つんだ。人が訪れるのを待つ。ヤクルトの監督の話が来たときもそうだった。まさかワシに?と思ったが、どこかで、こういう話を待っていた。人から望まれる場所を…」

ヤクルトでは日本一にも輝いた ©文藝春秋

「後悔しないように。苦しい状況をどう生きるか。それが経験の差になって、おまえの3年後、10年後を変える。新しい自分を育てるんだ」

「いろんな人に話を聴きに行け。たくさんの引き出しがある人間になれ。暗い顔をするな。下を向くな。堂々としていろ。何も怖がるな。やっていけるよ。大丈夫」

「苦しい中からチャンスをかぎ取った者が、勝つ。それはどんなときも、どんな世界でも、変えられない鉄則だよ。意外なこと、考えられないことが起きて勝つことがある。実感として負け試合なのに不思議と勝ったなあ、と。だから1対4でも、あきらめてはダメ」

「人間、誰にでも通らなければいけない道がある。そこをどう歩くのか」

「本当の強さとは、どん底を見て、そこから這い上がってきた人間が持ってるもんや」

〈宝のノート〉を一人で抱えているのはもったいない。伝えなければ埋もれていく言葉がある。彼が発した言葉の奥にある“背景”も含めて、書き残さなければ――。

 それは私の使命なのかもしれないと気づかされた。

遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと

飯田 絵美

文藝春秋

2021年6月28日 発売