「私の中では、日経新聞の記者とAV女優になる大変さはだいたい一緒ぐらいなの」
 
 こう語る鈴木涼美さんは、慶応義塾大在学中にAVデビュー。その後東京大大学院に進学し、大学院在学中に執筆した『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社、2013年6月)が「紀伊國屋じんぶん大賞 読者と選ぶ人文書ベスト30」に選ばれる。修士課程修了後は日本経済新聞社に勤務。5年半で退社した後、作家に。

 そして、文春オンラインでは速水健朗さんとの時事対談「すべてのニュースは賞味期限切れである」を連載中で、雑誌「TV Bros.」では鈴木涼美さんの担当編集者でもある、おぐらりゅうじさん。鈴木さんの近著『おじさんメモリアル』(扶桑社)を中心に、このお二人による1996年から現在までの振り返り対談、後編です!

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おぐら このところ、バブル時代のファッションや言動が、バブル未体験の若い世代におもしろがられたりして、80年代後半から90年代の知識や体験も少しずつ教養の域に入ってきてる。

鈴木 うちの母親は私のことをすごいバカにしてたの。「70年代は面白い子がいっぱいいたけど、90年代はパーしかいない」って。90年代文化といえば、安室ちゃんだよね。

おぐら アムラーにしてもギャルにしても援助交際にしても、第三者がルポルタージュとしてまとめたり、社会学的に研究されたりはするけど、その渦中で体現していた人が主観で書いて、さらに文才にも恵まれてるなんてことはまずないから。そこが鈴木涼美の作家としての圧倒的な価値でしょう。

鈴木 渦中で体現していた人は忙しいので書いてる暇も必要もないですからね。でも、それを価値だって言ってくれる人は少ないので、おぐらさんは当初からそういう風に私を見極めてくださっている稀有な人ですよ。もちろん作品や文章について褒められるのも嬉しいですけど、多くの人が興味を持ってくださるのは、元AV嬢とか経歴の奇抜さだけだったりするわけじゃないですか。

おぐら 最近はAV女優が本を書いたりすることも多いけど、求められているのは刺激的な内容とドキュメンタリー性の強さだったりするし。たとえ小説だとしても。

(左)鈴木涼美さんと(右)おぐらりゅうじさん

鈴木 私の中では、日経新聞の記者とAV女優になる大変さはだいたい一緒ぐらいなの。給料も同じくらいだし、エリート意識もだいたい一緒で、私の中では同質。でもそれを地続きでは見られない層もやっぱりいると思う。AV女優という職業の人が、同じ日常で暮らしているとは思えないというか。だから、私のことを、AVの世界から頑張って這い上がって日経に入ったみたいに位置付けられたりすると、私には違和感があるんですよ。逆に、AV嬢に市民権を与えようと頑張ってる活動家とも温度差を感じるんですけど。

おぐら そこを同質に捉えることができるから、鈴木涼美は最強なんだよ。取材とか研究のためにやってない。

鈴木 だって当時は本気でギャルのほうが魅力的だと思ったし。中原昌也とかよりも、つんく♂とかの方が本当に好きだった。中学生のときは小柳ゆきの歌詞めっちゃいいと思ってたし、ノートにglobeの歌詞を書き写してた。

おぐら そこはガチなのに、『おじさんメモリアル』の中でおじさんのたとえとして出てくるのが、竹中時雄、ラスコーリニコフ、ハンバート・ハンバート、羽村隆夫なんだよね。『蒲団』も『罪と罰』も『ロリータ』もドラマ『高校教師』も全部が並列。もう信用しかない。

鈴木 それでいうと、私がおぐらさんを信用しているのは、高校時代に茶髪ロン毛でコギャルと付き合ってたのは仮面で本心はサブカル少年だったとかじゃなくて、両方を同等に見ているのが、はっきり分かるところなんだよね。

おぐら みうらじゅんもギャル男も同じくらいかっこいいと思ってたし、伊集院光の深夜ラジオと同じようにコギャルの話もおもしろいと思って聞いてた。

鈴木 その感覚を持ってる人は少ないと思う。どちらかに身を置くことは、もう一方を無視するかバカにするかで成立すると思ってる人が多いじゃないですか。そして、どう考えてもその頃、メディアの中心にいたのはギャルの方でしょ? だからサブカル系の人やオシャレ系の人は、マスとしてのギャルを小馬鹿にすることがアイデンティティだったような気がしますね。

おぐら 登場人物としての主役はギャルだったけど、観客だった人たちのほうが数は多いから。